13 社会が共有する概念

本多 謙(2020/3/1

 

「主観的認識と客観的(科学的)認識」の項でも述べた「論理の積み上げ」という方法論を基に人間社会の運営システムを構築しようとしているのが法律の世界であり、法律を基に運営される行政の世界である。この法律の構造の基底となっている憲法には主に国民の安全、福祉、公平などの概念を基に国家の仕組みが規定されている。憲法に従って様々な法律が制定され、法律の運用を円滑にする為に省令や条例が制定される。公務員はそれらを基に行政を行い、それらを逸脱した行為は認められない。

 

日本では、明治政府が西洋列強に伍するために欧州国家の憲法を参考に帝国憲法を作り、以来今日まで憲法を基に国民の生活が営まれている。従って、現代の日本国民の生活の基盤となっているのは憲法による様々な規定の基となっている、安全、福祉、公平などの形而上の概念であり、これらに対する価値観である。憲法はこれらの価値観を所与の物としておりその価値観の正当性を論じていない。この社会が共有する形而上の概念の価値観や正当性を論じるのは憲法学者だ。そしてこれらの法体系の運用に関する正義を論じ判断し施行するのは弁護士、検察官、裁判官などの司法関係者である。

 

この構造に似ているのがイスラム教だ。憲法に相当するのがコーランであり、多くのイスラム法学者がそれを信徒の日生活上の様々な問題にどう適応するかの詳細をイスラム法として制定し施行している。例えば夫婦間の諍いを処理する家庭裁判所の様な機能をイスラム法学者が果している。イスラム教は具体的な生活上の規則を定め、信徒はそれを守って生活することを求められる。キリスト教の様に信徒の心の中までは踏み込まない。これはユダヤ教も同様である。これらの宗教は旧約聖書に相当するものを共通のテキストとして使うが、各々個別のテキストを持つ。新約聖書、コーラン、タルムード等である。

 

これらの経典を基に聖職者達は様々な概念とその価値体系を法体系として形成し広く共有させて来た。日本の場合、神道、インドからの仏教、中国からの儒教、西欧キリスト教の価値体系を参考にした憲法がこの価値体系を形成していると言って良いだろうか。

 

我々の生きている社会はこの様な経緯で歴史的に形成された概念の認識を共有している。それは自由、平等、博愛、公平、奉仕、愛、等々である。企業間の競争も社会で是認されている概念である。これらの概念の厳密な意味での認識は個人間では異なるが、我々は同じ認識を共有しているという認識を共有することを基に互いの社会生活を送っている。これらの概念が我々の社会生活の基になっているということは、これらの概念が、我々が他者と協調や対立をする場合のコミュニケーションを成立させる基盤になっているということを意味する。

 

この基盤が無ければ我々は他者とコミュニケーションすることはできないし、社会生活を送ることはできない。例えば、スーパーマーケットで買物をする場合、我々はいくつかの概念を共有した上で買物をしている。それは、誰でも店で売っている商品は何でも買うことができるという“自由”、商品を盗んではいけないという“正義”、お金を支払えば商品が自分のものになるという“所有の移転”などの価値観である。これらの概念を共有しなければスーパーマーケットという商行為の場は成立しない。

 

この様な概念は時間(時代)と共に変化したり消滅したりする。又、地理的に成立する地域と成立しない地域がある。例えば、“定価販売”という販売方式は17世紀に日本で始まった。それ以前には商品の販売価格は売る側と買う側が交渉して決まるものだった。スーパーマーケットや百貨店で定価販売が世界的に普及している現代でも、中近東などの地域では販売価格は交渉で決まる。日本でスーパーマーケットというビジネスモデルが急速に普及したのは、それを成立せしめる複数の概念が既に市場で成立していた、換言すれば、個々の日本人はこれらの概念を既に心の内に持っており、この様な社会を構成する共通概念(価値観)が既に存在していたということだろう。

 

又、例えば士農工商という江戸時代の身分制の概念は明治維新で消滅し、士族や貴族という身分制度は大東亜戦争の敗戦で廃止された。身分制が無くなったということは、その身分制を適正な社会の仕組みとして大多数の人々が受入れなくなった、ということを意味する。或る人々はこれらの身分制を維持したかっただろうが、それは成功しなかったということだ。しかし、この身分制は別の形で社会に残っている。例えば、学歴や就職がそうだ。どんな出自の者でも、有名大学を卒業すればそれなりの指導的な職業に就ける進路が提供される。一流企業に就職したり、公務員になれば定年で退職しても前の職場が次の職場を紹介してくれる。この職場の繋がりは生涯続く。斯様に、社会を構成する共通概念(価値観)は変容しつつ持続される。