1 証明不可能な命題

本多 謙(2020/3/5

 

「主観的認識と客観的(科学的)認識」の項では“主観的認識”は共有し難く、“客観的(科学的)認識”は積み上げが可能で共有し易いことを述べた。では例えば「自分は何者なのか?」、「人はどう生きるべきか?」という「到達し得ない水平線の向こうには何があるのか?」、「高い空の上はどうなっているのか?」、「蒼空にたなびく縄の様な白い雲は龍なのか?」、「人は死んだらどうなるのか?」などの疑問はどちらに属するのだろうか?例えば、「人は死んだらどうなるのか?」という質問には様々な回答があり得る。人は一旦死んだら生き返らない事、人が死んだら死体になり唯の物体となって腐乱し始める事などは客観的な認識として共有できる。だが「人は死後天国に行く」、や「死んで蘇る」は現象の集積による確率的正しさではなく、多分に伝承的だ。自分の周囲の人々は権威者が「人は死後天国に行く」というので自分もその様に思うことにするのだ。何故ならそれを自分一人で証明することはできないし、その様に考えると社会生活上問題が起きないからだ。

 

「人は死後天国に行く」のは表現の差異はあるもののユダヤ今日、キリスト教、回教、仏教などほとんどの宗教で述べられている。人は死という命題に対して各々の宗教は特定の概念(あるいは様々な神)を創造し、それを律法やコーランや憲法で更に詳しく定義し説明し、それ基にどの様に生きるべきかを規定しそれを社会で共有して来た。

 

倫理や美意識は成文化され組織化され、人はどう生きるべきか、に影響を与えている。或る者の行為に対して、それは「人として正しい行為なのか?」という問いかけは、或る人の行為が或る倫理や美意識に照らして正しいかどうか、相応しいかどうかを問うている。この場合「人として在るべき姿」、「取るべき行為」かどうかの判断は、法律や各種の規範集(ルールブック)に規定してなければ暗黙的集合知によって判断される。この「暗黙的集合知」は各人が各々の行為を各々評価しその情報を共有することによって緩やかに醸成される“正義”に対する主観的感覚と言っても良いだろう。例えば、嘘は許されるべきか?どの様な嘘なら許されるか、または罰せられるべきか、等である。

 

この基礎になっているのは、人間はどういう生き物かという認識だ。7世紀中葉に成立したコーランの教えはその後時代の状況に合せて信者が納得する様にイスラム法学者が様々に解釈を加えて来た。紀元前600年ころから書かれて来たキリスト教の聖書でも仏教の経典でも同じだ。これらの解釈の追加や改変の基礎となる認識作業は、乱暴に言い切ってしまうと、科学技術の様な積み上げは可能ではない。科学技術の論理の積み上げは観察した現象の客観的な認識によって常に検証されるが、宗教における積み上げが概念の上にそれを基にした概念を積み上げるだけであって、これは主観的な概念の操作になる。従ってその体系は精緻化され巨大なものになってゆき、論理の齟齬が生じても容易にresetできない。いつの間にか教祖の教えとは違うものに変質してもそれを特定し是正する手段が無い。この結果分派行動が発生する。

 

例えば「人間はどういう生き物か」という哲学的質問に対する回答は生物学、心理学、脳科学等の研究成果によって変って行く。“梃子の原理を効かした客観的(科学的)研究により認識を「積み上げる」ことによって我々は人間に対する認識をより高度なものにする。高い山に登ればより広い地域を見ることができるようなものだ。しかし、科学的認識は間違うことがあるし、新説により否定されることがある。例えばニュートンの万有引力の法則はアインシュタインの相対性原理で半ば否定された。しかし科学技術が発展したおかげで食糧が増産され、医療技術が発展して疾病が消滅し、人類は快適な生活ができるようになったことは世界の人口増加を見れば明らかである。これは明確に科学技術の方法論の成果であり、人類への恵みだ。宗教や哲学は斯かる意味での恵みを人類に提供して来なかった。

 

宗教学者、哲学者、経済学者などは、科学技術的方法論による人間というものに対する客観的知見を、科学技術の方法論とその成果を適用できる範囲の限界にも拘らず、積極的に採り入れ、経典を再解釈する必要がある。数千年前、数百年前に記述された経典の著者達はDNAの存在も知らず、月から見た地球の姿も知らなかったからだ。ここに経済学者を加えたのは、共産主義の為に何億人と言う人間が惨禍を経験したという歴史を人類が持つからでありその歴史は未だ終っていないからだ。共産主義の理論的基礎になっているマルクス経済学の歴史観は、“歴史は直線的に進歩する”というユダヤ教の歴史観を写したものであり、多くの人間がこの“証明不可能な命題”に突き動かされ革命活動に身命を捧げたからだ。マルクスにとって歴史の未来の彼方を展望することはその為の資料も無く難しかったので、彼はユダヤ人の伝統的歴史観を援用したのだろう。

 

“証明不可能な命題”は人類の難物だ。それが数学の命題程度であれば学会内の論争で収まるが、それが社会性を帯びた途端、関連する引数(パラメータ)が無限に増える。その結果主観的な創造や空想が生まれ、それが社会に伝搬する(伝承する)に従って社会を構成する人々の暗黙的集合知になり、時代を作大きな要素となる。