16 意識と無意識

本多 謙(2020/3/21

 

人間の記憶は生後いつ頃から始まるだろうか?筆者のおぼろげな最初の記憶は、私を抱いて家に帰って来た母が私を降ろし、裏木戸を開けて家の敷地に入った時のことだ。目の前に見えていた木戸が開くと一面に咲いていた色とりどりの花々があざやかだった。その小道を筆者は母に手を引かれて歩いて行ったのだった。これは私が歩き始めの、2歳にならなかったころだったろう。これを思い出したのは思春期に、自分は何者かを考え、自分の最初の記憶を辿っていたころだった。それまではこの記憶は無意識の世界に沈んでいたのだったが、だからと云ってこの記憶が筆者の人格形成とは無関係だったとは言えまい。

 

この様に赤子から幼児、児童、青少年、成年と成長の各段階で見聞きする物、読んだ本の内容、観た映画の内容、家庭や学校での様々な体験、換言すれば入力される情報は多くが無意識の世界に蓄積され、無意識の世界で構造化され、意識的及び無意識の要求に応じて意識の世界に浮かび上がる。浮かび上がった情報が事実だったかどうかを検証する術はない。私の赤子の時の母との体験は、母に尋ねても在ったかどうかは母には記憶に無いだろうし、他の誰も答えられない。無意識の世界に蓄積され再構成された記憶は他の記憶と関係付けられている。その関係性を辿って記憶は無意識から意識として浮かび上がる。人は育った環境を背負って一生を生きる。それから逃れる術は無い。

 

「意識は無意識が生み出す幻想なのだ」という言葉がある。では意識には意味が無いのかという問には「有る」と答えるしかない。「自分は考える葦ではあるが、意識と意思をもって行う考察は無意識が生み出した幻想かも知れないという括弧付きのものである」ことを弁えておくべきだろう。どの程度「括弧付き」であるべきかの知見は最新の脳科学や心理学などの成果を応用すべきだろう。

 

意識をもって思考した内容は再び無意識の世界に沈み込み、我々の無意識の思考に影響を及ぼす。その思考は何かの契機に意識として浮かび上がる。自分が何故あの時何であの様に思考し決断したのかを探ってゆくと、以前にあの様に思考したからだ、あるいはあの文章を読んだからだ、あるいはあの場面を見たからだと気づくことがある。思考も体験であり自分自身への新たな入力情報なのだ。

 

この種の入力情報は昔の誰かが知り得ない世界を説明する為に作り出した概念の系であることもある。仏教では宇宙の資源が〇△□だと説明した。ギリシャ人は金の時代、銀の時代、銅の時代の歴史展開を語った。日本では平安時代に末法思想が流行った。聖書では神が最初に天と地を作り、世界は終末に向かって直線的に進展すると説明した。いったい誰がこれらの説の真偽を証明できるだろう。現代科学だってそれは証明できないし100年後だって証明はできまい。我々はその様な系を構成する妄想あるいは想像を受け入れるしかないのだ。そしてそれは我々の無意識に沈潜し、「固着」する。

 

ある概念や概念の系を創造する時、それを構成する概念と概念を紐づけることがある。それは未知の世界を既知の世界に変える作業であり、創造的な作業だ。未知の世界は「神の世界」だ。そして人はその神の世界に踏み込む為に前段で述べた想像の系を無意識に使ったりする。例えばマルクスが資本論で究極の資本主義社会を述べる時に彼はユダヤ教の終末論を使った。彼が造った概念の系はウイルスの様に人類に感染し、その為の惨禍は未だに治まらない。