18 言語とは何か

本多 謙(2020/4/3

 

「知性と言語」の項で言語の発生過程を述べ、「知性は言語の基礎の上に構築される」と書いた。では「言語」とは何か。(人造言語についてはここでは述べない。)

 

言語は単語、文法、発音から構成されている。赤子の「おギャー」や「んまんま」なども単語だ。同様に人が驚いたときに思わず発する「あッ」や「おっ」も単語だ。何故ならそれは話者が自分の意図を相手に伝えようとしているからだ。これらは英語だと“Ah!“になる。日本語の「母親」は英語では”mother”に相当する。これらの言葉は自分を生んだ女性という意味では全く同じ意味になる。即ち、ある事象を表現するのに複数の単語がある、ということだ。これは、「単語は意味の容器だ」ということだ。だから、例えば日本語と英語のバイリンガルな子供達の間では”I like your haha.” などという会話が成立する。hahaは「母」のことだ。hahaも「母」も「自分を生んだ女性」という意味を容れる容器だ。母親というバイリンガルな家庭で育った子供達の会話はこの様な会話が日常行われている。この意味と容器の関係性は柔軟に変化する。古代ユダヤ人は「創造の主」とその名前が同じだとしてその名前を言わず、書かず、別の言葉で代用してきた。その為、元々の名前が何だったか分からなくなってしまった。

 

何十年も同棲生活を続けてきた老年の男女の間では「あれは何処にあったかな?」「あれはあすこよ」的な会話があることがある。ここでは「あれ」や「あすこ」の様な指示代名詞だけで具体的な「あの本」や「テーブルの上」などの言葉を代用している。指示代名詞が何を指示するかは文脈(状況)に拠る。似たことは他の名詞、動詞、形容詞などでも発生する。例えば、「やばい」という形容詞(感動詞)の意味は、従来は「困った」的な意味で隠語として使われていたが、最近は「格好良い」的な強い肯定の意味で使われる様になっている。即ち、単語の意味は使う主体や文脈(context)によって変わる。この様な柔軟性は言語の表現力を増す。

 

しかし、この柔軟性を排除しなければ現代社会は維持できない。単語の意味を厳格に守らなければならないのは、例えば契約書だ。契約書ではその中で使われる単語の意味をその冒頭で定義したりする。契約書以外に法律の条文、操作説明書、設計図、製品開発仕様書なども同様だ。逆に、契約書は法律の条文では表現を曖昧にして単語や文章の意味を幅ひろく解釈できる様にしたりすることもある。弁護士や裁判官は事件の判決に際し適用する法律の条文を特定し、その解釈を、判例を基に自分に有利になる様に定義する。ここでは、言語表現の意味は話者の論理の構築力強や論争を展開する流れに拠って決まる。

 

科学技術を基礎にした近代社会はこの単語の定義(意味領域)や言語の表現を厳格に守る社会でなければ発達しない。西欧社会は基本的にこの文化だ。この文化の震源はキリスト教の神学にある。アジアの日本にも似たような文化がある。それは時には西欧よりも厳格で、商品のパッケージや製品説明資料に少しでも誇張や間違いが書いてあったり、ビジネスでも営業や経営者が言ったことの中に嘘や矛盾があれば社会的に糾弾される。逆に、嘘が常態化した社会もある。孫氏の「兵は詭計だ」が今も生きている社会では契約書が発効してもそれが守られる保証はない。この様な社会では近代社会は成立しない。

 

日本には「言の葉」という表現がある。「言葉は物事の本質を表わさない仮初(かりそめ)の空しい物だ」という意味だ。この言葉は「だから体全体の感覚で本質をとらえる様にしなければならない」という文脈で使われることが多い。武術や技芸の本家(家元)制度はこの文化が基になっている。技を習得した者が師範としてそれを後継者に伝えるにはこの制度が適している。だが、この様な言語に対する文化では科学技術を基礎にした近代社会は構成できない。何故なら近代社会は個人という範囲の継承ではなく集団での継承が無ければ成立しないからだ。例えば、自動車産業は巨大な量の厳密な理解の共有から成立している。この共有の主役は言語だ。自動車の製造に関する仕様書に書かれている言語表現は全て厳格に定義されている。

 

単語の意味や文法や発音は時代が経過すれば変化する。それはある時代に人々の間での理解の共有を成立せしめた状況が、時代が経過することによって喪失するからだ。この現象は戦争や政治的混乱などで多く発生する。日本は島国で王朝が2000年間交代しなかったので教養ある現代人なら11世紀の小説が原文で読めるし、8世紀の歌集も何とか読める。戦争と破壊が続いた欧州では現代人が原文で読める小説は18世紀程度までがせいぜいではなかったか。

 

宗教や哲学は形而上学だ。この形而上学は言語で表現され、作者の形而上学は読者に伝達される。紀元前や紀元後数百年に書かれた形而上学の解説書(経典)は世代を超えて伝達されるべきものだが、時代が下がれば言語の性質上翻訳でしか伝達できなくなる。原文を共有しない外国人や後世の者に伝達し継承するには外国語に翻訳することになるが、これはセルバンテスの嘆きに通じる業だ。従ってこの種の伝達と継承は読者の空想と創造力に依存することになる。

 

ところで、絵画や音楽で形而上学を伝達できない訳ではないが、これらは歴史的にその補助に使われるに過ぎなかった。その理由は、我々の会話や自問自答は主に言語を使ってなされるという言語の特殊性と、我々が言語の表現として極めて持ち運びに優れ安価な表現の道具として筆があったからだ。筆は文字を表現する道具として過去数千年間使われてきた。ところが、21世紀になりデジタル時代になり、人々は図や絵画や音楽を手軽に作成しコピーして伝達したり、自己表現に使えるようになった。これは歴史的な大事件だ。文字主体の時代に育った年寄りは現代の若者が文字を読まなくなったと嘆くが、現代の若者が音楽やグラフィックでどの様な表現、伝達ができているかを調べた方が良い。