19 知性の社会性

本多 謙(2020/4/6

 

知能が高ければ、その人は知性があるのだろうか?知能(IQ)値を計測する試験問題は、現象の背後に隠れている論理を発見したり、空間を把握する能力等を試験するだけだ。人間の情緒の豊かさを計測したりしない。また、これは純粋に個人の能力を計測するもので、個人が他人と協力して何かを成し遂げる指導力は計測しない。隣人に共感したり他者と協力して物事を成し遂げる能力は我々が社会で生きてゆく上で必須の能力だ。「知性がある人」と認められるには単に知能が高いだけでなく、知能と知識を使って他者に何らかの飛び抜けた価値を提供できなければならない。例えば、「種の起源」を書いたダーウィンや英国の歴史家のアーノルド・トインビーや新井白石は知性ある人として知られている。

 

これらの人は何故知性ある人と呼ばれるのだろうか?長年研究や思索を重ね、老年に近くなって余人の及ばない高度な判断や知見を他者に提示し、後世の人がその評価を維持したので知性ある人と社会に見做される様になったのだ。この様な人も含め、以下の人間モデルが成り立つ。

 

このモデルでは、人は情報を入力(読み、聞き、体験)し、それを処理し、その成果を他者に価値として提供する。

 

ナポレオンやアレキサンダー大王などは学者ではないが高度の知性があったと思う。彼らは第一に戦場での駆引きにも優れていたので帝国を樹立できた。この駆引きに勝つには敵の動静を瞬時に理解し、以後の展開を予想し、自軍の勢力をピンポイントで最適な場所に最適なタイミングで投入するだけでなく、自軍の武将の離反を防ぎ、彼らを鼓舞して戦場を進ませなければならない。これは高度の知性が無ければ実現できない。この場合の入力情報は敵軍の動静や過去の戦績や自軍の武将の表情や戦場全体を流れる雰囲気などだ。指導者はこれらの入力情報を処理して自軍を指揮する。そして得られる価値は「勝利」だ。これはビジネスでも同じだ。

 

ナポレオンの高度な知性による勝利と敗退は帝国の版図の伸縮とフランス国民の自国に対する自尊心という結果(価値)を生んだ。前者は形而下の、後者は形而上の価値だ。この様な価値は普及しなければ人類に対して価値を持たない。形而下の価値は統治システムの拡大などで普及する。他方、形而上の価値は教団の勢力拡張や論説の受容者の増大という形で普及する。間違った論説は受容者が増えないので普及しない。この場合、増えるというのは社会を構成する多くの人に受け入れられ社会性を持つということだ。これは「知性が社会性をもつ」現象と言える。

 

ナポレオンの才能(知性)はそれが発揮できる環境を得て開花した。その環境が得られなければ天才はそれと認められない。ダーウィンにしても、ピーグル号でガラパゴス諸島に航海するという環境が与えられなければ「種の起源」は執筆できなかっただろうし、進化論という形而上の価値は提供できなかっただろう。どの様な環境があったから才能(知性)が発揮された(社会性を得た)かは個々に異なる。この様な現象を人類の歴史という高みで考えるなら以下が言える。

 

知能が高ければ高いほど、入力した情報の処理は高度になる。ところで、「高い知能を持った人間の数は人口の多さに比例する」ならば、10億人の人口からある程度以上の知能を持った人間の数は1億人の人口の10倍であり、10億人の人口の内最も知能の高い者の知能は1億人の人口の内最も知能の高い者より高いと言える。2000年前の世界の人口は4億人程度であり、現在の世界の人口は71億人だから、2000年前に比べて現在は18倍も高知能(知性)の人間が居ることになるし、現代人の内最も知能(知性)の高い者は2000年前の最も知能の高い者より知能(知性)が高いと言える。

 

又、入力した情報の量が多ければ多いほど、そして良質であればある程、提供する価値(出力する情報の質)は上がる(高度になる)と言える。2000年前の入力情報の媒体はパピルスや羊皮紙や粘土板や人の声で限られていた。今日のインターネットに比べればこれらの媒体の使用効率は極めて悪く、しかも情報量が絶対的に少なかった。また、言語(文法や語彙)自体も単純で抽象的観念や概念や論理を表現できるほど発達していなかった。だから旧約聖書には物語の記述が多く、新約聖書には譬えの記述が多いのだ。また、知的処理を効率的に行う手段も、現代では2000年前より格段に優れている。コンピュータとインターネットは情報の建策や参照が瞬時に大量にできる。更に、2000年前の人の寿命は現代の半分にも満たず、思考に費やす時間も短い。従って、2000年前に出力された情報は、この様な限界内で書かれたものとして読む必要がある。2000年前の最高の知性が書いた経典も例外ではない。2000年前に書かれた経典が今も価値を持つのは「後世の人がその論説を更新してその評価を維持した」からに他ならない。

 

過去、膨大な量の経典が書かれ、今日まで生き残っているのは僅かだ。数千年の間人々の評価に耐え生き残って来た経典の言葉には後世の多くの人が継承するだけの価値があるのであり、我々は歴史の風雪に耐えて来たものに対して謙虚でなければならない。