20 言語と知性の社会性

本多 謙(2020/4/10

 

“知性”という言葉は通常個人のものとして使われる。個人の知性は音楽、絵画、映像、文字、図形、あらゆる種類のメカニズム(複雑な機械など)によって表現されるが圧倒的に言語によって表現される場合が多い。また、個人の思弁は圧倒的に言語を使って行われる。個人の知性は社会性を獲得し、人の群の間で共有される。法体系、ルールブックは主に言語によって表現される。コンピュータソフトウエアは専用人工言語による表現が体系的に集積したものだ。言語はこれによって形而上の概念や形而下の事物を表現するものである。

 

自然言語は民族が育んで来たものである。何故なら、言語は本来人と人の間で情報を交換しコミュニケーションする為に生じ進化して来たからだ。進化して来たということは、より複雑、より抽象的な事物をより効率的に表現できるように変化して来たということだ。

 

日本人の場合、知性は日本語で表現される。何故なら、大多数の日本人はその成長過程において脳が日本語を母語とするように育つからだ。特殊な場合を除いて日常の知性の表現は主に母語で行われる。また、人は幼少期から思春期を通して様々な社会性を身に付ける。この社会性は、社会構造のなかでの自己の位置を認識すること、例えば自分が男(または女)の役割を演ずるべきか、或る特定の場合にどの様な表情や身のこなし、何をどの様に認識(価値付け)し発言するべきか等々である。斯かる社会性の態様は文明圏、民族によって異なる。従って、「知性には民族性がある」、と言って良かろう。但し、この場合の“知性”は、例えばIQ試験で計測できるものではない。“知能”と“知性”は異なる。

 

例えば、自分の感情を基底に主張や行動を展開してゆく“知性”があれば事実を共通の認識としてそれを基底に主張や行動を展開してゆく“知性”がある。科学技術が発展するのは後者の知性の群だ。何故なら、科学技術は主観を排した事実の認識を共有することを基底とするからだ。

 

科学技術に関する理解は知性の対象になるだろうか?数学は理解の積み重ねの学問だが、どんな民族でもどんな年齢でも、一定の知能があり、教育を受け、理解を積み上げれば理解可能だ。物理現象についても同様だし、物理現象を応用した技術も同様だ。これは主に“知能”の産物であり“知性”とは異なると言いたい。“知性”は“知恵”に近く、価値観に密に連携している。科学技術に関する理解を使って特定の価値観を基に巨大な防衛システムや産業構造を構築することはできる。これは知性の問題だ。

 

例えば現代の中華人民共和国(中国)はGNPが世界第2位と発表しているが、ある試算によれば実態はその1/3という。毛沢東による永年の失政の後、自由世界より30年以上遅れていることを自覚した中国の指導者は外国から技術と資本を導入して自国の産業育成に努めた。宇宙を遊泳し月の裏側にロケットを飛ばす程に科学技術は発展した。これは知能の成果だ。しかし中国の現状は、国土は汚染し住民は荒廃し、指導者達は外国に逃避し、外国に倣って取り入れた資本主義のメカニズムは崩壊しつつある。この社会に知性はあるのだろうか?

 

中国語には助詞が無い。単語が連なる順番の規則が助詞の働きをする。従って日本語の様に繊細な情緒や思考過程の微妙な様態を表現できない。表現できないということはそれが社会に無いということであり、他者とそれを共有できないということを意味する。これが中国の社会が殺伐としている理由の1つだ。更に、言語に使用に厳密性を欠いている(平たく言えば、しょっちゅう嘘をつく)。例えば、ナポレオンは戦争に勝ったのは最適なタイミングで最適な場所に圧倒的な量の自軍の資源を投入できたからだ。これには迅速且つ正確な状況報告が必須だ。この報告では言語の厳密な使用が求められる。それが無ければ戦には勝てない。企業や国家の事業も同じだ。中国語による知性の限界がここにあると言って良い。従って「群の知性は言語に依存する」と言って良かろう。