本多 謙 (2020/7/1) この様に我々の生活の事物を7層構造に当てはめるとしても、我々は日常の生活で元素の周期律表を意識するだろうか?呼吸の度に酸素を採り入れて二酸化炭素と水分を吐き出すことを意識しているだろうか?答は“否”だ。 鉛筆で文を書いている時、我々の思考を占めるのはその内容であって、鉛筆を構成する炭素やセルロースではない。せいぜい、その書き心地だ。書き付ける紙の滑らかさ、照明も意識の対象になる。これらが快適ならば意識の対象にならないが、快適でなければ意識の対象になる。即ち、意識は「どんな文章を書こうか」という第7層から第6層「サービス基盤」に降りて来る。我々の生活において、我々の意識はほとんど第7層にあり、第6層が正常に機能しなければそれが問題として意識の対象になる。例えば、書いている時の机や椅子は第6層に在って「書く」という第7層の行為の環境を構成する。これらの状態が悪ければ第7層の行為の結果に影響する。 我々の行為を大まかに分類すると、仕事、生活、その他になる。金融業界の仕事をする場合、その行為が現代の経済構造における貨幣の位置付けというパラダイムを意識することは極くごく一部の者を除いてはいないだろう。 食べる、着る、寝る等の自己の生命を維持する生活行為も構造は上記の鉛筆で文を書くのと同じだ。食事の場合、その行為をする者にとって意識の上で重要なのは料理が美味いか、食べて満足できるか、などだ。料理が和食か中華か仏蘭西料理かで調理方のパラダイムが異なり、それによって調理方法(ルール)も異なる。和食の場合、切り分けるのが重視されるが、中華では加熱方法が、仏蘭西料理では各種の味が調和したソースをどう作るかについて多くの方法論がある。方法論が確立するにはそれらを成立させる技術が無ければならない。例えば凍らせる技術があって初めてアイスクリームなどの氷菓が成立し、切れる包丁があって刺身とその盛付けの料理が成立する。第1層に属するのは食材と、加熱、冷蔵等の科学変化だ。食材が無ければ料理は始まらない。その上で、誰かが料理を食べたいという意欲や必要性(ニーズ)があれば料理を作ろうということになる。 恋愛は人類が共通に行う行為だ。平穏な恋愛もあるだろうし、劇的な恋愛もあるだろう。それぞれの恋愛には独自の7層構造モデルが成立するだろう。例えばシェークスピアの「ロミオとジュリエット」のような悲劇に終わる恋愛ではどの様な7層モデルが成立するだろうか?以下がその例だ。
主人公のロメオとジュリエットにとって、第4層以下はほとんど意識になかったことだろう。我々の実生活でも似た様なものだ。むしろ、我々の日常の高位の意識は第7層に偏っている。ロメオやジュリエットにとって両親、兄弟姉妹の発言や行為が構成する両家の争いは、それが当時の社会情勢の変化によるものだとしても、自分達の愛の障壁となり彼らの意識の大半を占め、行為や判断に大きな影響を及ぼした。この場合ロミオもジュリエットも死んでしまう訳だが。何故二人とも死んでしまったか?その直接の原因は第7層サービス行為における一寸した誤解なのだ。 この物語を構成する1つの層での一寸した行為の差が二人が死ぬという悲劇を起こす。観客から見れば、つまり神の視座から見ればほんの些細なことで人は死んだり生きたりする。何故なら当事者にとってこの第7層の些細な事こそが命を賭けるほど重要な場合があるからだ。なぜならその下の1~6層は当事者には変更できず、当事者はその上で考え、喋り、毒を飲むしかなくなったりするのだ。家庭で夕食にカレーライスを食べるかハヤシライスを食べるかの違いではどちらに転んでも死ぬことはない。これはこの行為の1~6層がロミオ、ジュリエットの場合と異なっているからだ。 |