34 霊について

 

前項「他者との通信路」では自分と他者の通信路について「1層は第6感を含む全ての感覚による通信媒体(communication media)を含む。」と述べた。「第5層 ルールについて」の項で、場の空気とは何かについて説明した。視覚、味覚、聴覚、触覚、嗅覚が五感と言われるものだが、これらの感覚を処理する人間の器官は特定されているのだが、「虫の知らせ」などと呼ばれる六番目の感覚を処理する器官は特定されていない。これは脳科学が特定するかも知れないが存在することは確かだ。

 

人は独りであっても自分以外の人格と対話することができる。或る人について思いめぐらす時、彼はその人を対話しているのだ。例えば父や母との経験を思い出している時、彼は父や母と対話しているのだ。同様のことは小説を読んだり映画を見た後その登場人物と対話する。その対話の通信路は第1層に属する。更に、人が友人と会って話すとき、その対話は第1層の通信路の媒体を通して行われる。この媒体は第6感の情報も通す。

 

対話の相手の感情や精神の状態、たとえ難問を解こうとして頭が全回転しているとか、喜怒哀楽を抱えているとか、疲れているとか、そういう状態は5感を通して総合的に受取れるし、それ以上の情報、例えばその人に人生に対する態度も受取れる。この様にしてABは直接会っても、ビデオ会議でも、手紙でも互いにコミュニケートできる。このコミュニケーションは二人以上に何人に(N人に)なっても成立する。例えば教室にいるN人の生徒の間で成立し、サッカー競技場の観覧席にいるN人の間でも成立する。この場合、N人を規定する場の装置が存在する。教室やサッカー場や映画館がその装置だ。そういう装置にはそれぞれの共有感情(shared sentiment)が存在する。そしてその集団感情は装置内の人間構成が変わると、文脈が変ると変化する。教室では先生が入ってくると彼が指導し生徒達が従うという構図に変化する。サッカー場では選手達が入場すると観客が選手達の活躍を見て応援するという構図に変化する。映画館では放映が始まると映画の物語の内容の変化に応じて館内の共有感情が変化する。これは講演会や演奏会でも同様だ。この共有感情は喜びや悲しみであったり怒りや羨みであったりする。これらの感情はその場の構成員の次の行動に影響を与える。例えばサッカーの試合の後のフーリガンの行為の様に。

 

サッカー試合である特定の共有感情が発生するにはそれを成立させる過去の歴史がある。2万人の観客一人一人に対して特定の日時に特定の試合場で特定チームの試合を見に行かせる歴史と状況がある。これは例えば誰かの誕生日パーティーでもそうだろう。これらの場でどの様な共有感情が発生するかによってその場の構成員は幸せになったり不幸になったりする。

 

和やかなパーティーの場に武装したテロリストが侵入して来た場合、その場の空気は明らかに変わる。非武装のパーティーの参加者は武装したテロリストの指示に従うしかないか、若しくは退避行動を取るか、反抗して殺され、死体となり、この世(生きている人間の世界)とは無関係になる。状況の変化により人々の心理は平和から恐怖に、あるいは苦しみに、あるいは安堵に変る。

 

あるいは、シェークスピアの「オセロ」では、華やかな結婚式の後、勇敢で理性的な英雄オセロを妬んだ者による1枚のハンカチを使った讒言の為に、オセロの心は嫉妬の為に激しく揺れ動き、遂に誠実な若妻を殺害するに至り、オセロも自死する。この物語の各段階での人々の行動を引き起こす“心の動き”を「霊」と呼ぶ。周囲の者を殺しまくる者、嫉妬から讒言を繰り返す者の心には「悪霊が宿った」と表現する。オセロの心は「悪霊が宿った」者の讒言により激しく揺れ動き、妻の潔白の証拠を求めても確信は得られず、嫉妬の苦しみにのたうち回る。何故だろうか?人間であるオセロには奸計を図った者からの情報に頼るしかなかったからだし、それ以外の者からの情報を利用するという発想がなかったからだ。オセロには、気の毒に、そういう発想の限界があった。現在なら、妻が使っているスマートフォンの通話履歴を調べるという方法があったかも知れないは、オセロの時代ではこれは無理だった。オセロは、妻の潔白という未知なる事象に的確に対応することができなかった。これを敷衍するなら、「我々はある事態に対処する時、未知なる事象にも対処せざるを得ず、未知なる事象に的確に対処するには発想の限界を定義してそれを意識的に打ち破る必要があり、それは当事者にとってほとんど不可能だ。」ということだ。

 

天安門前広場を占拠した青年達を銃撃した中国軍の兵士には、その攻撃の前に青年達が仲間の中国軍兵士を殺害したという嘘が流布され彼らの敵対心を煽るという策謀がなされた。これにより憎しみという共有感情(霊)が若い兵士の間で共有された。或いは、基督教では、イエス・キリストの磔刑の後エルサレムの一室に集まって怯え祈っていた弟子たちが特定の心の動き(感情)を共有するに至ったエピソードを“霊が降り注いだ”と表現する。