34 「神の領域」とは何か

本多 謙 (2020/8/15

 

前項で述べた「未知なる事象」は我々の身の回りに溢れている。我々には新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、インターネット等様々な媒体から情報が届けられる。それらの情報全てを我々は情報源に遡って検証できる訳ではない。稀に、料理のレシピの様に自分で料理して確認しようとしたり、又同じニュースを別の情報源で比較し確認しようとする。しかし乍ら、我々の多くは社会的に信頼された情報源からの情報の殆どをそのまま受け入れ、あるいは信じ、あるいは疑問符を付加したままにする。

 

これらの「既知となった情報」のほとんどを我々は「既知なる事象」として扱う。そのすべての真偽を検証する余裕は我々には無いからだ。教科書に書かれてある事柄を生徒たちは事実という前提で学習する。だが、彫像に当てる照明を変えれば彫像が違った見え方をするように、事実(事象の認識)は変るものだ。あるいは社会や歴史の場合、教科書の発行者が自分に都合の良いように記述を変えて真実とする場合もある。コインの裏表のように、自分が見ている「既知なる事象」の裏側には「未知なる事象」が隠れている。我々は「既知の事象」を扱うときその条件を意識しなければならない。そして「未知の事象」は我々の手の届かないところにあるという意味で「神の領域」といえる。

 

数々の陸上走競技で世界記録を持つジャマイカのウサイン・セント・レオ・ボルトは100mを9.58秒で走った。柔道の加納治五郎や合気道の植芝盛平の相手に触れずに相手を投げ飛ばす技は余人の到底なし得ぬところだ。超人的な能力を有する人に「彼は神の領域に入った」という事がある。これは彼の能力に対する讃嘆を込めた賛辞だ。この様な「神の領域」は変化する。何故なら、技の物理的メカニズムが解明されそれを再現する練習法が体系づけられれば同じ結果が出せるはずだからだ。柔道や合気道の選手は無理と言うだろうが、それを実現して来たのが人類の歴史だ。「神の領域」はこういうところにも在る。

 

装具や道具が変化発展すれば多くの人が「神の領域」だったところに行ける。例えば陸上競技の棒高跳びはグラスファイバーの棒を使うようになって競技のパラダイムが変り記録が大幅に伸びた。走り高跳びは背面飛びの実現で記録が飛躍的に伸びた。「神の領域」が移動したのだ。

 

18世紀以前には神の領域だった、宇宙とは何か?時間とは何か?生命とは何か?老いとは何か?などの質問には科学が或る程度回答する様になった。更に、心理学や脳科学を含む医学は目が見えない、歩けない、などの患者を治療し、メスメディアの発展はかかる身体障碍者に対する人々の認識を劇的に変えた。感染症の究明が進歩しその対策のおかげでマラリア、コレラ、黄熱病、ペストなどの死亡者を激減できた。その結果文明国での人口ピラミッドは筒形になった。このため文明国に住む人は生きている間、近親者や近隣者つまり人生の途中で愛する人の死に悲しむことがなくなった。これは或る理想社会の実現だ。おかげで聖者が病者を癒す場面が多数描かれている経典は再解釈を迫られ、神学者は経典の注解書を書き直さなければならなくなった。だが、どんな人も糖尿病や癌で死ぬ。「神の領域」が変化したのだ。

 

個人は各々2つの異なる「神の領域」を持つ。1つは遺伝子、もう1つは生後数年間の獲得物だ。人の持つ遺伝子は父親と母親からの遺伝子と受胎時に発生する数十個の突然変異の遺伝子だ。こうして生まれて来た我々はその情報を基にした個性に従って生きる。同じ努力でもある行為(記憶、跳躍、発想など)が容易に出来たり困難だったりするのはその為だ。これを「第一の天性」とも呼ぶ。

 

そして、新生児は生後(母親の妊娠期間も含めて)様々な情報(温度、湿度、音、振動、空気の構成など)を情報として取り入れその環境の中で生存出来るよう体の組織を成長させる。この環境で特定の遺伝子が活性化したりする。言語の習得を例にとれば、赤子は周囲の保護者が話しかける声を聴き分けてそれを記憶し、それと意味を結び付け、それに従って相手の言う事を理解し相手に自分の要求や考えを伝えようとする。これらは大脳の情報処理回路や発声用の筋肉の発達によって実現され、幼児は母語を習得する。これを「第二の天性」と呼ぶ。もし音を聞く機能が誕生時から失われていたらこれらの過程は体験されず、母語を話す為の筋肉や神経回路も形成されず、言語は視覚や触覚に頼ることになる。成長後外科手術で聴覚を得た人の多くが自殺するのは耳に入ってくる音から会話に必要な音声を選別する神経回路が形成されていないために膨大な騒音が拷問になってしまうからだ。

 

これらの、第一、第二の天性は個人の努力で如何ともし難いという意味で「神の領域」にあると言える。人はそれに従って生きるしかない。それに従って生きるのが自然だし、それに逆らうには膨大な努力が必要になり、その結末が幸せになるとは限らない。

 

これら以外に我々の存在そのものに関する「未知なる事象」が存在する。それは、何故自分は生まれたのか?生きているのか?どう生きたら良いのか?何故人は病み、老い、そして死んでゆくのか?自分とは何者か?などの疑問である。人生が順調な間はこれらの疑問は余り起きない。だがどんな人生でも蹉跌や迷いの時は来る。これらの「未知なる事象」は「神の領域」にあり、古来多くの哲学者や宗教家がその答えを人々に与えて来た。だがどれも決定解ではない。何故なら解提示から数百年、数千年経っても多くの解が並列して存在しているからだ。

 

未来も「神の領域」だ。我々が今から(これから)重大な何かを始める時我々は儀式を行う。その場に神を呼ぶ。例えば結婚式がそうだ。ロシア大統領も就任式の後ロシア正教会の総主教の祝福を受ける。唯物主義の中国共産党の総書記予定者もわざわざ日本に来て天皇陛下に拝謁する。突然何が起こるか予知できない未来に対し人は何等かの手掛かりを得たいのだろう。

 

既に述べた様に、新しい認識や可能性の発見は新たな疑問や不可能性を産み、それにどう対処すべきかを我々に要求する。これは終りが無い。従って「神の領域」が消滅することは無い。従って、我々は「神の領域」にどう対処すべきか常に問われている。「神の領域」には如何なる形にせよ神が存在する。