36 名付けるということ

本多 謙 (2020/9/13

 

我々は何故ペットに名前を付けるのだろうか?例えば、犬の販売店から一匹の犬を買って自宅に連れて帰ると、飼い主はその犬に特定の名前を付ける。それは、飼い主がその特定の一匹の犬との1対1の関係を作る為だ。この時点でこの1匹の犬は犬の販売店にいるその他大勢の無名の犬や、この犬の過去の飼い主と差別化することになる。この新しい犬の名前はこの犬と飼い主との人生の新しい段階を象徴するのだ。

 

飼い主は新しい犬との関係について期待を込めて名前を付ける。それは昔飼っていて死んでしまった愛犬の名前かも知れないし、犬を見て飼いたいと思った瞬間に閃いた言葉かも知れない。飼主はこの犬を呼ぶときその名前で呼ぶ。犬は当初その意味を理解しないだろうが、飼い主がその名前を何度も呼ぶにつれ、自分の名前を覚える。覚えるというのは、飼い主が犬を名前で呼ぶのを聞いたがその特定の声のパターンを感知し、その時の飼い主の態度を見て自分が呼ばれていることを認識しその状況に応じた反応をするということだ。

 

この名前に関する構造は人間にも当てはまる。親は新しく生まれた我が子に期待を込めて名前を付ける。母親は我が子をその名前で呼ぶ。母親はその名前で別の我が子を呼ぶことはない。呼べば混同するからだ。個体を識別する為に固有名詞を使う。名前は固有名詞だ。ここに母親と子供の1対1の関係が成立する。だが、子供は母親を名前で呼ぶことはない。「ママ」や「お母さん」は普通名詞だ。子供は母親を「ママ」と呼ぶ時母親を、自分の生存に必要な全てを与えてくれる存在として認識している。一人の人間にとって母親は一人だけだから、子供が母親を普通名詞で呼んだとしてもここには1対1の関係が成立する。似たような機能を提供する女性は「おばさん」とか「おねえさん」という普通名詞が用意されている。

 

後妻になった女性は先妻の連れ子から早く「ママ」と呼ばれたい。この後妻は「おばさん」という何人かいる内の一人より「ママ」と呼ばれる、連れ子にとって唯一の存在でありその生存と成長を左右する重要な存在になった時、例えば連れ子から「ママ」と呼ばれた時自分の存在価値を再度確認し、安堵し、子供に愛されていることを認識して自分を誇りに思うだろう。その逆は実子であっても「ママ」と呼ばれなくなった時だ。

 

名前は変ることがある。昔の武士は幼名を持ち成人した後元服名を持った。芸人は芸名を持ち、文筆家は筆名を持つ。歌舞伎役者は先達の名前を襲名しそれに相応しい役者を目指す。これらの名前はその人が社会生活を営む上での役割を象徴している。その名前には期待や希望が込められている。それらは名前の上に(先に)相手に伝えられる肩書において顕著だ。肩書は名前の枕詞だ。それは「あおによし、奈良の都」や「ノーベル賞作家、川端康成」のような具合だ。名前は人や物が人間社会でどの様な機能を果たす、どの様な立場を占めるかを表示する為に付けられる。

 

我々は「未知なる事象」に対して関係付けをしようとする。名も無い花つまり新種の花の命名を国際条約の規則に基づいて行った場合、その花には国際的に通用する名前が付けられる。即ち、その花は人間社会を構成する要素として人間社会から認められたことになる。名も知らぬ花を見付けた時我々はその花の名前を探す。そしてその花の名前を見付けた時、我々は自分とその花が人間社会の中でどの様な距離感をもって対処すべきかを認識し、一安心する。更に、花の名前にどの言語体系の名前を使うかにより、その花に対して関係付けをするのが発見者一人だけでなく、その言語を共有する文化の集団に対しても関係付けをすることになる。例えば同じ薔薇の花であっても学名、英語名、日本名など複数の名前が存在する場合がある。その薔薇の花に対して日本語名を使えばそれはその薔薇の花に対して、或る日本の文化集団に対する関係付けをすると言える。どの様な名前が付けられても、それは薔薇の花自身にとって無関係なことだが、人間社会のその薔薇に対する認識や態度が変わってくる。

 

蜻蛉(かげろう)という日本語の名前は儚げな、日本的美意識を感じるが、同じ昆虫を英語でDragon flyと呼ぶと、奇怪な空中を飛ぶ怪獣という感じを受ける。どちらも命名者の対象に対する意識や感情を投影したものだ。星座も同様だ。単なる明度の高い複数の星の光を選び取り、それを一つの纏まりとして認識し、それに神話の物語などを投影した名前を付ける。特定の自然現象にもこの投影作業は行われる。風化して危いバランスを保って岩の上に残っている大きな石や、森閑とした森の一部や、急峻な山など、何らかの特定の意味を感じたり、又特定の意味を付与したい気持ちになる物体や現象に対して、我々はそれに名前を付け(それを言語化し)、様々な関連する意味を付け加える。それは対象から受ける印象を基にした連想ゲームのようなものだ。

 

この「何らかの特定の意味」が「神の領域」に属するものであったりすると、それは宗教の一部となり、信仰の対象になったりする。例えば深い森の様に、山や森はその様な対象になる。そして「関連する意味」は「死」であったり、「生の喜び」であったりする。そのどちらにも「聖」や「霊」という意味が共通する。これらの意味には名前が付けられ、即ち言語化される。古代ユダヤ教を深源とする日本の神道で宇宙創造の根源を「天之日中主神(アメノミナカヌシノカミ)」と呼ぶ様なものだ。類似した概念をユダヤ人はヤーウエ(Yahweh、固有名詞)と呼んだりその代名詞としてエホバ(Jehovah)と呼んだりする。

 

言語化するということは特定の或る物を意識の対象として扱えるようにするということだ。一旦言語化されるとそれは我々の脳内で他の概念との関連付けがなされる。即ち、関連する概念の系が自動的に形成される。この概念の系は主に言語を用いて抽象化されるが、具象化によって具体化される。十字架や鳥居や仏像や寺院建築などがそれである。それはこの概念を補強しより強く記憶する為だ。だが、いったんその具象化された概念の辺縁系(具体物)が出来上がると、それらは逆に本来の概念を規定し始める。それはあたかも裸の人間の体に衣服を着せるようなものだ。

 

この構造が人間社会で様々な問題を作りだす。なぜなら我々は事物を、情景と物語(即ち具体物)で記憶するからだ。「天之日中主神」も「エホバ」も概念として極く(ちか)しいものであっただろうが、一旦言語化され辺縁系を獲得すると二つが全く違うものとして異なった人間社会(community)で扱われる。