37 具象化するということ

本多 謙 (2020/9/19

 

前項で「だが、いったんその具象化された概念の辺縁系(具体物)が出来上がると、それらは逆に本来の概念を規定し始める。」と述べた。これについて詳述する。

 

「神の領域」という表現はオリンピックで多く使われるだろう。世界中から一流のアスリートが集まって同一の条件で能力を競うのだから、金メダル獲得者はその競技において人類最高の者と言える。その為競技者は自己の最高の成績を出すべく、自己の本来の能力以上の能力を発揮することが求められる。即ち「神の領域」の能力を求められる。競技者はその為に高い神経と精神の集中を求められる。金メダルという金属の板を加工した物はこうした条件下で人類最高の実績を達成した者に与えられるので、金メダルの獲得者はそれに相応しい待遇を受けることになる。金メダルはそうした要件を具象化したものとなる。

 

一流商店の包装紙や紙袋はその中の商品に対する品質、信頼、格などの概念を具体化する。ハートのマークは愛を、鳩の絵や図案は平和を象徴したものだが、同時にこれらの「何かで特定の形状を作ったもの」や「紙の上にインクを載せた具体的なもの」にこれらの概念を関係付けたものと言える。即ち、形而上の概念を具象化したものと言える。

 

「神の領域」が生や、死や、解決不能の悩み苦しみに関わるものである場合、それを具象化するものは金メダルの様な単純なものではなくなる。それは絵画であり、像であり、音楽であり、舞であったりする。仏像や十字架等の人工物や虹の様な自然物はその例であり、これらはその1つの単体から多くのメッセージをそれに対面する者に伝えられるものである。

 

これらの被具象化物は我々の生活に溢れている。我々はそれらからのメッセージを受け取りながら育ち、日々を生活している。例えば、我々が移動している道路は或る“考え方“の体系に基いて設計されている。京都は皇居を中心に碁盤の目になっている。これは皇居が最上級の高位にあるという思想に依る。城下町の道路は城を中心に設計されており、多くは外敵の侵入を阻止し易い様設計されている。これらは支配者が権力をどの様に守るかという思想に基づいて設計されている。鎮守の森に至る参道は多くの場合神社の社に向って直進し、その途中に鳥居や橋がある。これらは神という絶対の概念を体系付けた神道の思想に基づいて設計されている。即ち神道思想の辺縁系として具象化したものだ。我々はこれらの道を歩く度に、即ち毎日の生活においてこれらの思想を経験しているのだ。

 

住居の間取りも思想体系に基づいて設計されている。住居の中心になっているのはリビングルームか?ダイニングキッチンか?居間か?床の間か?神棚か?仏壇か?によって、住居の設計者の価値体系が窺える。この様な家に住んでいることで我々はその家の思想を体験し学習しているのだ。

 

自動車や家具等の日常接するもの全てに設計思想がある。機械にも設計思想がある。機械と言えば冷たい、非人間的なという修飾語を使う人も多いだろうが、機械を見ればその設計者がどの様に考えたかが分り、とても人間臭い。高級自動車の運転席を見れば、設計者が購買者の自尊心や嗜好をどの様に満足させ、競合製品とどの様に差別化しようとしたか苦心の跡が見える。これは資本主義産業社会に特有の設計思想だ。この逆が社会主義国の自動車の設計思想だ。この機械(自動車)は資本主義思想を具象化した辺縁系の具体物だ。

 

山の様な自然物にも設計思想に相当するものがある。富士山をどう認識するかは我々が富士山をどう認識するべきかについてどの様な情報を摂取して来たかに依る。富士山の対称な造形は我々に自然に神聖な概念を引き起こす。富士山は万葉集で詠まれたし竹取物語にも出て来る。太宰治の「富士には月見草が良く似合う」という富士山に関する新しい認識の視点を提供する表現が評判になった。これらの情報は富士山という対象の認識の辺縁系として具象化したものだ。これらの辺縁系の具体物の認識が積み重なり富士山という自然物に対する美意識が形成される。我々は、特異な天才を除いて、対象物の認識を教えられた通りに、あるいは既に知識として吸収した通りに行う。即ち「いったんその具象化された概念の辺縁系(具体物)が出来上がると、それらは逆に本来の概念を規定し始める。」これは富士山に限らない、ワインやファッションや芸術や民主主義などの政治体制や宗教についても同様だ。

 

富士山には月見草が良く似合うという美意識は太宰治以前には無かった。この認識は日本人に広まったのはこの認識に対する受容体が多くの日本人の認識系にあったからと見做すのが正しいだろう。同様の受容体が多くの外国人にあれば富士山と月見草の組合わせの美は多くの外国人に受け入れられる。この例は「うまみ」に似ている。「うまみ」は日本人が昆布や鰹節から抽出した味の一種で、西洋では日本人が提示するまでは具体的に認識されなかった。どの人種でも味蕾はうまみを認識する様につくられており、従って「うまみ」に対する認識は世界に普及したのだ。今は「うまみ」は諸外国で普及し、”umami”という元日本語になっている。

 

ところで、受容体には人類が共通して持つ先天的なものと成長過程で形成されるものの2種類がありそうだ。先天的な受容体も、どの人間も共通して持つという訳ではないだろう。マラリアに対する鎌形赤血球やエイズに対する耐性の遺伝子は持つ者と持たない者がいて、各々世界観が異なるだろうからだ。

 

富士山+月見草や「うまみ」の共通項には、あるいは後でもっと適切な言葉を発見するかも知れないが、“美意識”という言葉を用いることにしたい。この美意識は他の美意識と共に系を構成する。即ち体系付けられる。富士山+月見草の場合は秋晴れの中に静かに佇む女性的な富士山を生み出す日本の気候であり、「うまみ」の場合は料理を構成する様々な要素との調和(harmony)だ。調和(harmony)する要素は互いに結び付き系を構成する。この系は美の設計思想とでも呼ぶべきものだ。受容体を構成するのは美意識であり、美意識が機能するのは調和する場合だ。換言すれば、美意識的に齟齬が無い時、受容体は事象や概念を受け入れる、つまり人は自分のものとして採り入れる、ということだ。

 

数学や科学にも美意識は影響する。余談めくが、筆者が大学で数値計算処理の抗議を聞いていた時、複雑で長々しい複数の数式をあれこれと操作してAxB=0という一つの数式に収斂させ、ではA=0の場合とB=0に分けて解を求めるという方法を聞いてその方法論の洗練された美しさに感嘆した覚えがある。

 

斯くして太宰治という一個人が発した富士山+月見草という富士山に対する新たな概念は出版物や映像という媒体を通して人々に広く共有され富士山に関する文化の一部として定着する。概念は具象化かれ、具象化された対象に日常接することにより我々は無意識にその上位にある文化を身に付けてゆくことになる。