本多 謙(2020/12/01) これは1冊の本が書けるくらいの主題なのだが、ここではこの一連の論考の趣旨に添って大まかに論じてみたい。 「民族」という単語の意味を知るにはそれに類似する、そして対峙する単語を並べて比較すれば良い。それは個人、家族、一族、部族、藩(、国)、民族、国家、世界、などだ。「一族」という言葉は死語になったが、森鴎外の小説「阿部一族」をイメージして戴ければ良い。これは阿部家の当主を中心に親類縁者が自宅に立て籠もり、全員が討ち死にする物語だ。現代では葬儀に参列する血縁者の集団が一族に近似する。「藩」は中世の「国」に相当する。「国家はフランス革命以降の「近代国家」を意味する。「個人」から「世界」までの単語は意味する人間の集団の規模が小から大になる様並んでいる。個人の範囲は明確だが、家族から世界に向かってその定義の教会は曖昧になる。「世界」は地球に生きる全人類という意味で明確だ。 私なりに単純に言いきってしまうと、民族の定義は「言語と価値体系の系譜を継承する人々の集団であり、その規模は藩より大きい。」と言えるだろう。「価値体系の系譜」とは文化を共有し継承することだ。 明治維新まで日本は藩という国の集合体だったが、明治政府は廃藩置県や戊辰戦争の勝利などで日本を国民国家に作り替え、それ以降日本は日清日露戦争、大東亜戦争を経て単独国家として生存している。この国家の構成員である日本人は言語、生活様式、政治システムを共有し、日本国のパスポートを持って世界を移動している。現代の国家は卵の殻の様に個々の国民を護っている。今日の日本の在り様は歴史的な投資と犠牲の上に成立している。幸いなことに、現代の日本国の領土に住む日本人は言語、生活様式、政治システムを共有している。だから日本の場合、国家と民族が完全に被さっている。文化が被さっているかと言えば、それは斑模様と言えよう。日本には神道、仏教、基督教などが併存し共存しているからだ。だが、この論考集で既に述べたように言語を共有していれば宗教家の細部に亘る主張を超えた所で「神」は同じなのだ。 民族と国家が一致するのが最も幸せな形態なのだが、世界はそうなっていない場合が多い。例えば米国には多くの異なった価値体系の系譜の民族が住んでいる為に民族間の軋轢が常に起こり社会が不安定になっている。しかし米国には「自由、平等」という上位の価値観があり、米国民はそれを共有することによって社会の安定を維持している。個人の生活が平和なら人々は「民族」を気にしない。気にするのは人間の集団の利害の不一致が発生したり、その自尊心が傷付けられる時だ。「民族」という単語の意味はその時の状況や文脈に依って変わる。この日本国という殻に守られたいと願う外国人は、米国が移民に対して要求する様に、過去の日本人が払った投資と犠牲を尊重し、それなりに日本に報いなければならない。 世界には、主に大陸には多くの民族があり、1つの民族が複数の国家に分類されたりする。朝鮮民族やマジャール人(ハンガリー)やクルド人の様に1つの民族が歴史的経緯で複数の国に分裂して居住する場合もある。ハンガリー帝国は第一次世界大戦に負け、ハンガリー帝国の領土が大幅に縮小した結果マジャール民族の居住地は今のハンガリーと周辺国に分散した。従って「民族」という単語の意味は居住する国家に依らない。 その典型がユダヤ人だ。彼らは世界中に分散して居住し、居住地の言語を話すが1つの民族として定義できる。彼らの共通項はユダヤ教の聖書である。この聖書はヘブライ語で書かれてあり、ユダヤ教徒の子供はその主要部分を暗記する様教育される。この暗記教育により子供の無意識の中に聖書の価値体系が記録され蓄積される。一旦蓄積されるとそれは価値判断、美意識、善悪、優先度などの意識や思考方法の影響を及ぼす様になる。住み着いた所で婚交すれば自分がどの民族に属するかは不明になるだろうが、どちらかの民族に属する教育を受ければその迷いは無くなる。 中華人民共和国は漢族の毛沢東が建国したが、本来は中原を中心とする狭い地域の国だった。彼らは周辺地域(モンゴル、満州、ウイグル、チベット等)に居住する複数の民族を制圧し彼らの独自の文化を消滅させつつある。現代版のホロコーストといって良い。少数民族は独自に言語を使うことを禁じられ、独自の教育プログラムで教育することを禁じられ、漢族の言語と歴史を教えられる。歴史教育は民族の同一性を身に付ける効果がある。紅毛碧眼のウイグルの子供達は黒目黒髪の漢族の歴史を教えられ、それと同一であることを強制させられる。従って自己同一感を形成させられない。これでは人格が崩壊する。17世紀に漢民族を征服し清王朝を建てた満州族も同様な惨禍に会っている。 中華人民共和国の他民族抹殺の政策と歴史は中原を核心とする国の民、漢人が周辺の国々によって征服されて来た歴史を二度と再現しないためだという。従って彼らは日本を征服して日本人にチベット人にした様に中国文化を埋め込み、西太平洋を自国の領土とするまでは安心できない。だがこれでは、虐殺の歴史は終らない。日本人はウイグルの様になりたくなければ中国に対抗しなければならない。それには「日本民族」というコンセプトを前面に立て、それを「神」として、それを中心に結束し勢力を集中しなければならない。 人類は過去に多くの民族間紛争を経験した。それは今も多い。個人は、そして民族はどうしたら良いのか?これに関連する自分の体験をご紹介したい。以前YMCAの活動としてフィリピンの子供たちを迎え、その歓迎会のお世話をしたことがあった。その会場に駐日フィリピン大使が参列して「ここは天国みたいだ。」と言った。その理由は、祖国フィリピンでは民族間、部族間の抗争が続いているのに、このYMCAの会場ではこれまで会ったことも無い人々が共に歌い共に楽しんでいるから、なのだった。キリスト教、YMCAという“文化の容器を共有”していたからそれが可能だったからなのだろう。共有する“文化の容器“はキリスト教に限らない。 |