本多謙(2021/1/22) 「文化の発生・成立・継承」の項で、「サッカー場で掃除して帰る文化の7層モデル」を示した。このモデルの構造は以下の通りだ。 サッカー場で掃除して帰る文化の7層モデル
ここで、「この美意識の無い文化もあり得る。掃除の様な卑しい仕事は下層階級の専業とする文化だ。この文化も1から7層の構成要素はほぼ同じだ。5層のルールの部分だけが異なる。文化の違いと一口に言うがそれは5層部分だけの違いと言って良い。」と述べた。 「サッカー場で掃除して帰らない文化」の者達が「サッカー場で掃除して帰る文化」の者達の真似をし出したということは、文化の伝搬と言って良い。両者の文化の差異は5層の「ルール」部分だけだから、伝搬は容易な方だろう。他に、若者どうし、サッカーの応援を共にする、サッカー応援の様式を共有している、など伝搬を容易にする条件は揃っている。乱雑に散らかった環境に対する嫌悪感、清潔に整頓された環境に対する嗜好性はどちらの文化に属する者も共に有しており、一方の者が塵を片付けて環境を清潔に整頓したら、他方の者はそれに同調しようとするだろう。それが他方の者にとって一種快感だからか、美意識が刺激されたか、価値体系のどこかに接点があったからだ。 それにもかかわらず、もし厳格な身分制下にあって自分が最上層であり掃除は最下層の者にしか許されない状況にあれば、この者にはこの文化は伝搬されないだろう。片付けたグループの者達は卑しい者と判断されるかも知れない。この場合、双方の文化は互いに相手を誤解したままになる。 複数の人間の群が共に何かをしようとする時、そこには「神的存在」が媒介として働くと前に述べた。異なる文化が伝搬しようとする時にもこの「神的存在」は働く。サッカー場での清掃に「心的存在」が働いた。だから人々はともに同じ行動即ち「サッカー場での清掃」を行ったのだ。この「神的存在」を「文化」と対比させると分りやすい。文化は系を構成し、その基底には或る特定の「神的存在」に対する認識があり、その基底の上に文化を構成する様々な部品(piece/parts)を積み上げて人間は文化を創り出す。建築物の基礎に相当するこの基底は風土、地政学、歴史的体験などを基に形成される。 例えば日本文化は日本列島特有の風土的、地政学的制約の下で約2万年住んで来た人々が作り出した文化だ。台風、地震、津波などの経験が日本文化を構成する重要な部品になる。東日本大震災を顧みればそれはお解り頂けるだろう。縄文時代からの海洋民族としての経験の積み重ねや2000年間外国から独立を保ってきた歴史以外にも神武天皇時の古代ユダヤ教、ヒンズー教、道教、仏教、儒教、基督教などの外来宗教も日本の文化に影響を与えた。古代ユダヤ教は神道として遷移し日本に定着した。日本ではこれらが軋轢無く併存している。それが日本文化の最大の特徴であり、それは日本語の主語を省くという特徴に顕れている。部品で構成する文化は基底が異なれば異なる建築物の様に本来は交換不可能だ。だが、部品は交換可能であったりする。日本人は主語を省く等の方法で建築物間の齟齬を2000年かけて融解させたのだろう。 日本国内ではこれで何とかなっても外国相手には事はすんなりとは運ばない。サッカー場での清掃に話を戻す。日本の若者の行為に賛成する者もいれば批判する者もいる。この場合、一方は「人は皆平等で共に何かをするのが良い事だ」という神(ルール、価値体系、文化)であり、他方は「人には各々属する階層に従ってすべき事とすべきでない事がある」という神(ルール、価値体系、文化)である。どちらの神も歴史的積み重ねの上に人間の集団(民族)に成立しているものであり、容易には変化しない。インドでは汚物の処理はカースト最下層の不可触賤民の仕事だが、日本では排泄物を肥料にする農民が正当に認められた。(江戸時代の士農工商は正確には職能分類であって、能力次第で町人から士分への取り立てがあった。) この文化が異なる個人や集団(会社、民族、国家等)が接触するところに軋轢が発生する。一方が「客観的事実は神聖なもので動かし難いものだから、双方は事実に基づいて言語表現を交換しその過程を通じて合意を形成すべきだ」という論理を基礎にする文化に基づいて客観的事実を他方に提示しても、他方が「自分は相手に酷い目に合わせられたのだからその恨みに応じて相手に謝罪させることが正義だ」という論理を基礎にする文化ならば、相手は架空の事実(夢想)を相手に提示して攻撃する。あるいは、「契約書は一言一句正確且つ精密に規定し、契約者はその規定を絶対守らなければならない」文化の者が「契約書は契約時の双方の考えを記録したものだから、時間が経てば無視できる」文化の者が契約するなら、そのビジネスは維持困難だ。 この様な軋轢を解決する方法は、個人間の軋轢であれば決闘などの私的暴力や裁判制度の様な公的暴力だ。国際的な軋轢に対しては様々な調整機関(国際連合、国際調停裁判所など)や戦争だ。なぜ戦争が絶えないのか?なぜ同じ宗派間で諍いが怒るのか?その理由は人間の本性にある。人は他人より優位に立ちたい、特に人間の雄は猿山の猿の様にボス猿の地位を欲しがる。自分が苦労して獲得した物(それは教義だったり財産だったりする)組織の論理に組み込まれていても雄は自分の思うようにやりたいと思い、より大きな権力の座を求めたり、自分が自由にやれる世界を作り出そうとする。例えば家族を引き連れて荒地を開墾したりする。人間の雌の場合はここでは触れない。こうした原因に依る争いが未来にも避け得ないのならそれを軽減する手段はないだろうかと考え着いたのが「人間の構造の7層モデル」だ。このモデルを定規(template)として自分や他人の行動を分解して可視化することにより、自分が他人と争っている部分が極微小であることに気が付き、争いから寛容に至ることを期待している。私の知る限り、宗教者で新派の開祖となる者にその傾向が強い。 上で「文化の基礎になる論理」について述べた。文化は人々の間で共有する「神的存在」だが、この基礎になる論理が何かによって同じ文化に属する人々は幸せになったり不幸になったりする。分りやすい例が共産主義と資本主義の違いだ。ユダヤ教教師(ラビ)の息子であるマルクスが構想した共産主義はユダヤ教の思考会式(template)に彼の悪魔主義を基に経済学用語を使って論理を積み上げてできたものだ。キリスト教の周辺宗教と言って良い。共産主義は人間の負の部分の感情(嫉妬、憎しみ、怒り、嘘など)を基礎に論理を構築して生まれ世界中に拡散した。その理由はこれらの人間ならだれでも持っている負の感情が受容体となったからだ。その結果発生から2000年に至るまで共産主義のために1億人が殺された。共産主義国の経済も崩壊し国民は塗炭の苦しみを味わった。米国は共産主義国であるソ連を、同じ共産主義国である中国と手を組むことによって崩壊させた。しかしその為に中国を通じて共産主義は様々に変態し、BLM(Black Lives Matter)やANTIFAの様な運動となり民主党の支援団体となり、民主党が米国を中国の様に変えることになった。これが文化が違うということの意味だ。 |