恐れに勝つ力

小林 光 牧師

聖 書; 創世記 第32章〜第33章

私たちの人生には、必ずと言っていいほど、何かの課題に取り組み、真剣勝負で戦わなくてはならない時があります。その課題とは何か。それは人それぞれ違うでしょう。しかし、一つ確かに言えることは、その戦いは他ならぬ自分自身との戦いである、ということです。もっと突き詰めて言えば、自分の中に潜む「恐れ」との戦いです。その恐れから逃げず、目をそむけず、ごまかさず、真剣に向き合う時、創世記 第32章〜33章の聖書の言葉は、必ずやあなたの支えになり、勇気になり、恐れに打ち勝つ力になると信じます。

 

 創世記第32章には、「恐れ」という言葉が2回出てきます。1回目は、8節「ヤコブは非常に恐れ」、2回目は、12節「わたしは兄が恐ろしいのです。」では、ヤコブという人物がどうして兄のエサウを恐れているのか、その経緯を少しお話しします。

 

 イサクとリベカという夫婦に双子が与えられました。兄がエサウ、弟がヤコブです。ヤコブという名前は、出産の時、兄エサウのかかとをつかんでヤコブが生まれてきたので、かかとを意味する「アケブ」という言葉から「ヤコブ」と名付けられました。この時からすでにヤコブは、兄エサウのかかとをつかみ、足を引っ張って、引きずり下ろすような存在だったのです。

 

 この当時は兄である長男が家のあととりでしたし、父親から祝福をいただく後継者でした。弟のヤコブは何とかして長男の権利と祝福を自分のものにしたいと思い、ある日、兄エサウと父イサクをだまして、初めに長男の権利を、次に祝福まで奪い取ってしまったのです。ヤコブにしてみれば、ついにやったぞ、という気持ちですが、兄エサウはかんかんに怒り、自分をだまし、父をだましたヤコブを殺そうとしました。身の危険を感じたヤコブはすぐに家を出て、遠くにある母の実家に身を寄せて、兄の怒りのほとぼりが冷めるまで、かくまってもらいました。

 

 それから何と20年の歳月が流れ、ヤコブも家庭を持ち、それなりに財産もできました。母の実家にも居づらくなり、何よりも神さまから「兄のもとへ帰るように」と命じられたので、20年ぶりに兄エサウに会うために、故郷を目指して帰って行くのです。家族や召使、そして財産でもある多くの家畜を引き連れて帰って行くのです。その時でした。「使いの者はヤコブのところに帰って来て、『兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます』と報告した」(同7節)のです。この報告を聞いてヤコブは、兄が四百人の軍隊を率いて待ち構えていると判断したのです。20年前の復讐、報復に違いないと、ヤコブは非常に恐れ、悩みました。あなたがもしヤコブの立場なら、この時、どうしますか?

 

 ヤコブは本当に狡賢い男です。3つのことをしました。1つ目は、家族や財産を二つに分けて、どちらか一方が攻撃されているうちに、もう一方が逃げれば、被害は半分で済むと考えました。2つ目は、贈り物作戦です。色んな贈り物を大量に先ず贈って、兄の怒りをなだめようと考えました。要するに「物」で解決しようとしました。3つ目は、自分が最後に行き、ほか人や物が犠牲になっても自分だけは生き延びることを考えました。どれも卑怯な手口です。自分の中にある「恐れ」に正面から立ち向かうことをしませんでした。

 

 そんな卑怯で狡賢いヤコブですが、たった一つだけ、ヤコブにもすばらしい所がありました。彼は祈ったのです。神さまに、すべてを包み隠さず、神さまだけには自分の弱さを洗いざらい打ち明けて、助けを求めました。それが同12節の言葉です。「(神さま)どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」必死の祈りです。どんなに恐れの中にある時も、絶体絶命のピンチの時も、神さまへの祈り、この祈りだけは残されているのです。ヤコブは祈る人でした。

 

その夜、ヤコブは神さまと格闘します。祈って、祈って、祈って、神さまが本当に自分と一緒にいて、自分を祝福してくださると確信できるまで、夜通し祈りました。そして祈りの末に、ついに兄エサウと再会する朝を迎えました。「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた」(第33章1節)のです。神さまに祈る前のヤコブなら、恐ろしくなって逃げ出したことでしょう。しかし、今は違います。祈りによって、神さまが共におられることを確信し、恐れに打ち勝つ力が与えられました。それ故に、なんと、「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した」(同3節)のです。列の最後にいたヤコブが自ら先頭に進み出て、物でなだめるのではなく、自ら七度地にひれ伏して、「ごめんなさい、赦してください」と謝り、完全に自分が悪かったことを、心を尽くして、態度で兄に示し続けました。すると、「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」(同4節)のです。奇跡が起こりました。兄弟をこのように和解させてくださったのは神さまです。神さまがヤコブと共にいて、恐れに勝つ真の力を与えてくださったからです。

申命記 第31章6節には、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」とあります。この御言葉を、ヤコブは身をもって経験いたしました。あなたも経験させていただけます。神さまへの祈りは、恐れに勝つ唯一の力です。

以上

 

私たちの人生にわ、必ずと言っていいほど、何かの課題に取り組み、真剣勝負で戦わなくてわならない時があります。その課題とわ何か。それわ人それぞれ違うでしょう。しかし、一つ確かに言えることわ、その戦いわ他ならぬ自分自身との戦いである、ということです。もっと突き詰めて言えば、自分の中に潜む「恐れ」との戦いです。その恐れから逃げず、目をそむけず、ごまかさず、真剣に向き合う時、そうせいき 第32章〜33章の聖書の言葉わ、必ずやあなたの支えになり、勇気になり、恐れに打ち勝つ力になると信じます。 創せい記第32章にわ、「恐れ」という言葉が2回出てきます。1回目わ、8節「ヤコブわ非常に恐れ」、2回目わ、

12節「わたしわ兄が恐ろしいのです。」でわ、ヤコブという人物がどうして兄のエサウを恐れているのか、その経緯を少しお話します。

 イサクとリベカという夫婦に双子が与えられました。兄がエサウ、弟がヤコブです。ヤコブという名前わ、出産の時、兄エサウのかかとをつかんでヤコブが生まれてきたので、かかとを意味する「アケブ」という言葉から「ヤコブ」と名付けられました。この時からすでにヤコブわ、兄エサウのかかとをつかみ、足を引っ張って、引きずり下ろすような存在だったのです。

 この当時わ兄である長男が家のあととりでしたし、父親から祝福をいただく後継者でした。弟のヤコブわ何とかして長男の権利と祝福を自分のものにしたいと思い、ある日、兄エサウと父イサクをだまして、はじめに長男の権利を、次に祝福まで奪い取ってしまったのです。ヤコブにしてみれば、ついにやったぞ、という気持ちですが、

兄エサウわかんかんに怒り、自分をだまし、父をだましたヤコブを殺そうとしました。身の危険を感じたヤコブわすぐに家を出て、遠くにある母の実家に身を寄せて、兄の怒りのほとぼりが冷めるまで、かくまってもらいました。

 それからなんと20年の歳月が流れ、ヤコブも家庭を持ち、それなりに財産もできました。母の実家にもいづらくなり、何よりも神さまから「兄のもとへ帰るように」と命じられたので、20年ぶりに兄エサウに会うために、故郷を目指して帰って行くのです。家族や召使、そして財産でもある多くの家畜を引き連れて帰って行くのです。

その時でした。「使いの者わヤコブのところに帰って来て、『兄うえのエサウさまのところへ行って参りました。兄うえ様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のおともを連れてこちらへおいでになる途中でございます』と報告した」(同7節)のです。この報告を聞いてヤコブわ、兄が四百人の軍隊を率いて待ち構えていると判断したのです。

20年前の復讐、報復に違いないと、ヤコブわ非常に恐れ、悩みました。あなたがもしヤコブの立場なら、この時、どうしますか? ヤコブわ本当にずるがしこい男です。3つのことをしました。1つ目わ、家族や財産を二つに分けて、どちらか一方が攻撃されているうちに、もう一方が逃げれば、被害わ半分で済むと考えました。2つ目わ、贈り物作戦です。色んな贈り物を大量に先ず贈って、兄の怒りをなだめようと考えました。要するに「物」で解決しようとしました。3つ目わ、自分が最後に行き、ほかの人や物が犠牲になっても自分だけわ生き延びることを考えました。どれも卑怯な手口です。自分の中にある「恐れ」に正面から立ち向かうことをしませんでした。

 そんな卑怯でずる賢いヤコブですが、たった一つだけ、ヤコブにもすばらしい所がありました。彼わ祈ったのです。神さまに、すべてを包み隠さず、神さまだけにわ自分の弱さを洗いざらい打ち明けて、助けを求めました。