キリストの力に生かされる

 

宮内俊三

「目が見もせず、耳が聞きもせず、

人の心に思い浮びもしなかったことを、

神はご自分を愛する者のために準備された」第一コリント2章9

 

今日(こんにち)人々は神のことについて聞いても驚いたり、心を動かすことがなくなっているように思います。従って生活はしていても、本当に生きるとはどういうことかと考えることも少ないようです。あなたにはその時がありますか。現実には充分に生きていないで、この人生を一部分にしか生きていないのではないでしょうか。

 

この世界も時も毎日変って行きますが、どんな時にも、また変り行く環境のうちでも十分に生き、勝利の生き方をしているでしょうか。生きている限りは自分の指先まで生き生きとしていたいのがわたしたちの願いではないでしょうか。

 

この美しい大自然の中で生かされて、また多くの人の中に生きている自分が、会う人ごとにその人の励ましになるような、スリルのある生き方をしたいとは思われませんか。

「あなたは本当に生きていますか。それとも自分に甘え、他に甘えて(しか)も不服を言いながら漸く(ようやく)生きているのか、と自分に聞いてみることだと思います。

 

わたしたちがキリスト信者だというのはどういうことなのでしょう。わたしたちの信じているキリストは「昨日も今日も、いつまでも生き続けていられる。キリストはわたしたちの命の源であり、すばらし生命(いのち)と力とを与えてくださる方であります。

「わたしが生きているのであなたがたも生きることになる」ヨハネ福音書14章9

と聖書は告げています。この世には色々の信仰がありますが、わたしたちはこの(いのち)の源であるキリストを信じる者であります。少なくともわたし自身にとって、信仰は何よりも大きい力であります。キリストを信じるのは生命(いのち)の根本を握っているようなものであります。

 

この時代の人は、厳しく生命(いのち)のたたかいをすることを忘れているようです。それを好まず、何かあると他人が悪いと思い、損をしないで得をすることばかり考えて日々を過ごしています。もっと自覚的に本当に生きるにはどうすればよいかと考える必要があると思います。

 

そのため、強く生きるにはその生命(いのち)の源は何か、と追及せねばなりません。例えばこの大河はどこかと求めて行くと、その源になる泉に到る。そして地底からこんこんと湧き出る水を見出す。手にすくって飲めば、水とはこんなにおいしいものかと生きかえった思いになる。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く、しかし私が与える水を飲む者はだれでも決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4章18)

との主イエスのみことばが思い出されます。

 

キリスト教の歴史を読むと、初め度々の迫害、試練を経て、一つの組織が出来、やがて色々の他の思想や宗教に対して明確な立場を主張するために教義を組織的に形成するようになり、また信条が制定され、制度としての教会、教職、礼典が定められました。そのうち教職のための特別な服装が造られるようになりました。

 

キリスト教というのは一つの組織、制度だという人がありますが、必ずしもそれらに制限されないものがあります。またこの社会を改革するプログラムだという人もいます。そのようなところもないわけではありませんが、私はそれ以上のものであると言いたいのです。それは、人を生かす力だと言ってもよいのです。

 

主イエスは言われました。

「わたしが来たのは羊が生命(いのち)を受けるため、しかも豊かに受けるためである」ヨハネ第10章10

この生命(いのち)とは人間の根本或いは源である力と言っても良いのです。

聖書はわたしたちの肉体を生かす力である命(プシケー)と神を信じて与えられる、更に深いところでわたしたちを永遠に生かす生命(いのち)(ゾーエー)とを語っています。信仰によって与えられる生命(いのち)はイエス キリストを信じる者に与えられるものですから前掲のように言われたのであります。

 

この地上において主イエス キリストのように生命(いのち)そのものとして生きられた方は他にないのです。だから聖書は主イエスを指して、ヨハネ福音書の冒頭に

(ことば)の内に生命(いのち)があった。生命(いのち)は肉体を照らす光であった」と告げ(1章4)また、イエスも

「わたしが来たのは羊(人)が生命(いのち)を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われたのであります。この「生命(いのち)」は主イエスの内にあり、信仰によって私たちにも与えられるものですから、生命(いのち)そのものである主イエス キリストこそ人間を照らす、まことの光であります。そして主イエスは

「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14章9)と言っておられます。本当に充分に生きようと願う私たちの心のうちに鳴り響く言葉、驚くべきメッセージではありませんか。

 

「生きるなら本当に生きたい」とだれでも望んでいます。半死半生のような在り方はしたくない。心の底、奥深いところで、生きるなら本当に生きたいと望んでいるのです。その私たちに向って聖書は

「神の子と結ばれて(、、、、)いる(、、)()(心に保つ者)にはこの生命(いのち)があり、神の子を心に保たない者は生命(いのち)がない」(ヨハネの第一の手紙5章12)と告げています。これは決断を迫ることばです。

――まあどちらでもいいですよ――というようなことではありません。本当に生きようとするなら、この生命(いのち)の源であるキリストに直面することです。その時には、もうじっと立っていられない程、生涯を揺り動かす感動に満たされて栄光の生命(いのち)の主、イエス キリストを心の内に受け入れるとは何と輝かしいことだろうと日々痛切に思いながら生涯が送れるのであります。でなければ私たちは本当に生きているとは言えないのです。

 

私はこのような生き方をしているキリスト者を多く見て来ました。いつの間にかそう信じていたというのではなく、それまでの紆余曲折はあったとしても。或る日、ある時キリストを信じて、人生の一大転回を経験して、新しく生きた、心が生れ変った人があるのです。このことは日々新しくして頂いている、毎日死より生命(いのち)に変っているともいえるのです。

 

人生の転回と言えば、一人の老信者のことを思い起こします。私は神学校を出て東京の下町の教会に赴任した時、秋庭浜太郎という長老がいました。岡山県津山の出身で武士の家に生まれた為か、礼儀正しい人でした。毎日私を連れて教会員の家に案内してくれました。当時私は二十三歳の若輩でしたのに、実に丁重にしてくださったのです。この人は志を抱いて東京に出て、新聞記者となり、文才のある人でしたから著作もし、ナポレオンの妃ジョゼフィヌの伝記など出版したそうです。人生の半ば、丁度40歳の時に、ある動機からキリスト信者になり、その後も色々と苦労もしたが、信仰の生涯を全うしました。息子さんが東京で有名な琴の師匠となり、本人も悠々自適の晩年を送りました。前半生は世俗の中に生き、後半生は信仰に生きました。背高い鶴のような痩身でその年でも矍鑠(かくしゃく)としていました。聖日ごとに青山の自宅から下谷竹町の教会に礼拝に来ました。ある時病床につきましたので見舞に行くと、元気に話して、祈って辞去する時「どうぞ妻君によろしく」と言われたのが私の聞いた最後のことばでした。終生親しく交わった竹馬の友が見舞に来て「早く元気になってくれ」と言ったところ「いやぁ吾輩もあさって頃じゃろう」と言った通り、二日後の暁方に眠るように天に召されました。

 

この人は別にむずかしい哲学や神学だのと理論をもって振りまわすような人ではなかったですが、生涯の半ばで、人生の在り方、考え方を変え、キリストに根ざして、それまでとは別の道を歩んだのです。年齢もはじめて八十歳を過ぎていたと知ったのですが、年をきいても「年など考えたことはありません」との言葉が返って来たのです。「以前は世間的でそのくせ左右をいつも気にしつつ、恐れながら、底意地を張って過していたがキリストを信じてから生活の土台がキリストになったから、生きる日々が感謝に変りました。」まことに頗る(すこぶる)爽やか(さわやか)なキリスト者でした。

「心の内に御子を保つ者には本当の生命(いのち)がある」

ということば通りの人でした。もう六十年たっても忘れられない爽やかな人でした。

 

キリストを心の内に持つことは、力強さ、熱情、自己抑制、勝利の日々、前途のよりよい見込みと生きる勇気を与えられるものであります。それまでは寝惚けのような鈍い人でも、生命(いのち)の源である主イエスを心の内に保つようになったら、このように変るものであります。これを否定してはなりません。人は考えるように、そして生きるように造られているのですから主イエスによって常に新しく活きいきとしているように皆さんと共にこの主を信じて進みましょう。

 

しかし、いきいきとした生活をダメにするものがあります。それは人を憎む心と、恐れと、狂気であります。それらをなくするのはそんなに複雑なむずかしいことではありません。

主イエスも、恐れるな、敵をも愛せよ、と言われました。そして十字架にかかっても、人々を愛されました。しかも何者をも恐れず堂々としていられました。その主キリストに自分を明け渡して行けば世界も相手も変ってくるのです。

 

ですから、わたしたちは生活の中で活きて働く信仰のあるキリスト者でありたいのです。

だれも沈んだような悲観的な心で毎日を過したくないのです。またいのち(、、、)を充分発揮しないで、いつも病人のような生き方をしてはなりません。たとえ身体に病気があっても、心まで病まないようにして頂いて、健全な力強いたましいをもって日々に生かしていただくように祈りましょう。

 

ある明るい愉快なキリスト者がありました。その人が話すと古い話も新しく、面白くて、聞く人皆を楽しくしました。その人の教会の牧師は、その人を誇りにしていました。

「この人は3年前まではまるで暗がりの中にいる人のようでした。頭痛がする、胃が痛む、手足の関節は痛むという。医師をなんども替えたがよくならない。あるときかかりつけの医師が有名な医師を紹介してくれたので、遠いところまで行って診てもらい、精密検査まで受けた上で、その名医が言われるには――あなたのからだはどこも悪くない。それでもあなたは悪いとこだらけだというのだから、直さなければならないのは、あなた自身です。あなたの考えが病気しているのだから、頭からしみ出るものが全身を悪くして、胃痛、関節痛、心臓まで不調にしているのだから、別に薬はいりません。しかし遥々(はるばる)と来られたのですから、治療の処方を出せと言われるのなら、そうですね、帰って教会の牧師を訪ねて、神様の前に正直な信仰について聞き、それを自分のものにしなさい。ところで、診察料はコレコレ、と目が飛びでるほど高いお金を請求されました。帰って来て牧師を訪ねてわけを話すと、――あなたは、当然払うべきものの半分も払ってないのですよ。もっと払ってもよかったですね。どうですか、これから礼拝堂で一緒に祈りませんか。一つ思い切って、ご自分の持ち物だけでなく、重荷も、ご自分をも、主イエス キリストにささげられるよう祈ってみなさい――とのことでした。その意味を良くわかったこの人は、本気に正直に祈りました。そしてキリストを心の底から信じるようになりました。聖書のことばで言えば「キリストを心の内に保つようになった」のです。その結果あのように他の人々まで本当に楽しくさせる人に変ったのです。これはその人の教会の牧師が聞かせてくれた話でした。

 

私たちはキリストと自分とは、それ程深く関わっていると考えていないのではないでしょうか。そして神を小さく考えすぎているばかりか、ケチな自分に閉じこもって甘えているのです。もう一度聖書のことばを読んでください。

「このことは目が見もせず、耳が聞きもせず、

人の心に思い浮びもしなかったことを、

神はご自分を愛する者のために準備された」(第一コリント2章9)

とあります。私たちの信じる神は大いなることをなさる方であります。

 

私がいわゆる大言壮語しているとお思いですか。まだ何分の一も、何百分の一も神の偉大さ、その恵みの大きさについて語り得ていないのです。しかも神のことばは十全なのです。私たちはこの神の(ことば)である聖書を信じキリスト、十字架と復活の主を信じる者であります。そのキリストを信じることは自分の生涯をキリストに明け渡すことであります。キリストに自分を明け渡したその日から私たちは、キリストを心の内に迎えて、永遠の生命(いのち)を約束されている者となるのです。また重荷があればそれをも主イエス キリストにおまかせして、日々新しくして頂くし、恐れるな、思い悩むな、と言われているのですから、そのままに信じて、行けば、ものの考え方からからだまで大丈夫にしてくださるのです。

 

ある、非常に長命だった信者は、椅子にもたれたまま眠るようにして天に召されましたが、その何日か前に、「私が天に召されたら、牧師に――向うであなたのために働いている――と伝えてくれ」と言ったそうです。

「御子イエス キリストを信じるものには、本当の生命(いのち)、永遠のいのちがある」のです。

1991年5月5日