信仰と聖霊に満たされた人

宮内俊三

 

聖書;使徒言行録第7章54〜60 「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」

 

 

使徒言行録はキリスト教会の初期の歴史の記録であります。世界には数限りなくある歴史書の中で、最も読者(どくしゃ)の心を躍動させるものといってもよいのです。これはルカ福音書の著者ルカの手になるものと言われていますが、本書の主たる目的は、キリストの教会の始め、忘れられたような世界の片隅パレスチナの片田舎に呱々の声をあげたキリストの教会が、どのようにして全世界に拡大して行ったのかと、その成長のはじめと、福音の力とを語ろうとするものでした。

 

いつの時代であれ教会を構成するものは建物だとか組織ではないのは言うまでもありません。結局は「人」なのです。その初期の教会の中に躍り出たのがステファノその人でした。

このステファノこそ発展して行く教会の歴史の主役の一人であったのです。

この一人の信者のことによってあなたがたの心に訴え、また私もこの人にあやかりたく願うのであります。

 

一、

ステファノのここに到る経歴は明らかでありません。ルカはこの第七章まで彼の名を一度も挙げておりません。この人が登場するのは当時の教会内のある人々の不満、(つぶ)やきからでした。この人々というのは教会内で無視されていると感じている人々がある、軽視されているというか、差別されているのに対する抗議があったのがことの起りでした。当時のエルサレムにあった教会には貧しい人々が多く、地方の諸教会から援助が送られて来ましたが、中でもかなりの未亡人、その中でも世界各地から出て来てギリシャ語を日常語としているユダヤ人と、本国に生れてヘブライ語を話すユダヤ人があって両者間に意思の疎通を欠いた上に、送られて来た援助金の分配についても、ギリシャ語を話す人々が無視され勝ちだというので、その側から苦情が出ました。「教会の委員たちは不公平だ、役員たちも身びいきをしている。その上に使徒たちまで彼らに同調している」などと訴えるのでした。

 

このようなことはいつの時代の教会内にもあり得ることであります。私たち教会の者たちは同じ目標を以て生き、神の福音の御約束の全うされるために共に奉仕をするべき者たちですのに、自分の都合に執着し、自身の性格や感情に捉われてものごとを判断する為に、つい呟やきが起るものであります。

 

しかしこのような呟やきが計らずもステファノのような人を見出すことになったのです。

 

このような場面に引き出されたステファノにとっては大きな苦労だったと思われるのですが、信仰の人としての大きい期待をもって選ばれたわけであります。ルカによればこのステファノはただ事務処理の才能などによるのではなく、「信仰と聖霊に満たされた人」と紹介されています。

 

ステファノにとっては決して見映えのする大舞台でもなかったというより、心身ともに労苦の多い縁の下の力持ち、水面下の働き手として登場してもらったわけですが、歴史をみても、華やかな役割を果す人よりも寧ろ隠れた所にいる人によって時代が転換して行くことが屢々(しばしば)あるわけですが、このようにして当時のエルサレムにあった、ほんの小さな救い主待望の群が、世界を改革する群となって働き出すことができたのであります。ここにステファノが選ばれた意義の大きさに気付くと、それは何気ない一事件ではなく、思わず「いきを呑む」ばかりのことであったのです。

 

ステファノを選ばれた主の深いみこころを想い、これを今の私たちに当てはめて考がえると、私たちはどんな時にも恐れたり、戸惑ったりすることはありません。

 

危急な時、何かに挑戦されている時、悪い知らせを受けた時も、主を信頼する者にとってはそれらの困難は更によい結果となるよう開かれるべき(とびら)だと見ればよいのであります。神は常に変ることなく、凡てを不思議に導いてくださるとの信頼に立つのが私たちのあるべき姿勢であります。私たちにとっては自分の教師になるべきものや場合がいろいろあります。時に幼な子からさえ教えられることがありますし、何でもない会話の中で、人から受けた手紙等によって閉ざされた扉が開くことがあります。その上自分で意識しないうちに、神が不思議に恵み深い摂理をもって、私たちを導いて、環境までも変えて下さる。その時にはステファノのように恐れず、思い切って、飛びこむのです。私の貧しい経験からもそう思っています。

 

二、

さてステファノはこうして登場して来ましたが、彼を待っていたのは命がけの困難でした。それはステファノが心血を注いでのキリストの福音の証言でした。それは聴衆のうちのある人々を極度に怒らせてしまったのです。

 

ステファノ自身はギリシャ語を話すユダヤ人でしたが、同じ仲間の人々に主イエス キリストについて語ることから始めました。

 

「エルサレムで十字架にかけられたナザレのイエス キリストは他の犯罪人と同じように処刑されたが、神はこの方を、人間への愛と同情と赦しの証しとして復活させられた。この方こそ世界の(すくい)(ぬし)でいられる。」というのでした。彼が言いたかったのは、主イエス キリストの到来は世界の新しい秩序の始まりである。この新しい世界においては、一民族のみが尊しとする排他主義や宗教的偏狭性、自分たちは他のどの民族よりも秀れ(すぐれ)ていると考えて、他を軽んじる、でっち上げの差別観は消え失せ、世界はキリストの愛と恵みに包まれて、皆、一様に神の家族となるのだと説いたのです。

 

聴衆の中にはこのような新らしい世界観に同調できないユダヤ教徒が多くいて、彼らの上層部に取り上げられ、遂には宗教裁判にまで持ち込まれるようになりました。彼らはイエス キリストによる新しい世界秩序なるものはペテンであり神への冒涜だと宣言しました。

 

ここに人間の大きい矛盾と罪があることを見逃してはなりません。人は皆神との和解と平和こそが最善のもの、心の底で願っているものなのに、それが語られると反駁する。今日の世界における民族間の争い、戦いのある度に多数の者が殺される、殊に非戦闘員、婦人、子供等の苦難など誰が考えても悪だとわかっていても、屢々(しばしば)試みられる当事者たちの話し合いや和解も直ぐに破られる。人間のことを学術語ではホモ・サピエンシス(賢こい人間さま)と言うそうですが何と愚かなものでしょう。また罪深いものでしょう。

 

三、ステファノの死

ステファノの燃えるような福音の証言、十字架の主イエス キリストによって示された神の新世界についての信仰告白は当時のユダヤ教の指導者をいきり立たせ、ステファノに逆らい耳をふさいで聞くにたえぬと叫び、彼を街の外に引き出して、狂って石打ちの刑にして殺してしまいました。

 

ルカはこの様に私刑(リンチ)により最初の殉教者となったステファノのことを言行録第7章54節以下に書いていますが、何よりも心打たれるのが彼ステファノの最後の祈りであります。

「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

と狂暴な人々への赦しの祈りは、正に十字架上の主イエスの赦しの祈りに通じるものがあります。彼の信仰の底知れぬ深さと力とを証ししています。そうして一筋に祈って救い主と一体となっている聖徒を見るのです。私たちはこのステファノを見ながら、自分は何と赦す心の少ない、不信でケチな根性を反省させられるのです。

 

ここで見逃してならないのが、その場で立って見ていたタルソのサウロのことであります。その時は冷たい目で見ていたサウロでありましたのに、あの時のステファノの輝やいた顔、熱烈な祈り、その時には不思議に思っただけでしたのに何故か彼の瞼の裏に、眼の底に焼きついていたのです。そうしてタルソのサウロ、後の使徒パウロが、世界を新たにする、十字架の主イエス キリストの福音のために生涯を捧げる者となって行ったのであります。

 

祈り

主イエスよ、この罪深く、塵あくたのような僕は、あなたのおんめぐみによって救われ生かされてきましたが、聖徒ステファノや世々の殉教者たちのようにはなり得ませんでも、あなたの御霊を私のうちに送ってくださいまして、救い主となるあなたを更に深く知ることができ、生涯の日のある限り福音を証する者としてください。御名によってアーメン。

1995年 8月6日