「常に新しく」

宮内俊三

聖書 フィリピの信徒への手紙2章5〜13

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 

説教;

考えてみてください。近頃あなたの生活に対して神が何かを示していられるか。今までこれは神のお示しだと思ったことがありましたか。神のみこころについてそれ程気にかけていられないかも知れません。これはあなたの欠点、罪、過ちを示されるというよりも、神があなたに対し、またあなたの(ため)に御心にかけ、あなたの心に働きかけていられるのを感じたことはありませんかということです。

 

そのようなことは人間の思い違いだから、もう考えたことはないという人もいることでしょう。

 

ところが今朝読んだこの手紙を書いたパウロというキリストの使徒は自分の歩んで来た道をふり返って見て、神の導きを想わずに居れなかったのです。使徒言行録第26章12〜32にはこのパウロがアグリッパ王の前に出て、語ったことが記録されていますが、その中で「私は天から示されたことに背かず」と言っています。これはキリスト教に反対し、キリスト信者を迫害に出かけた旅の途中で、突如(とつじょ)そのキリストに(とら)えられて180度転回してキリスト信者となり、その上残る生涯をキリストにささげた大宣教者パウロの告白であります。言わばパウロの回心のことば、その後の生涯の出発点でありました。

 

パウロももちろん私たちと同じく、自分を完成した者だとか、自分の生き方は完全だと考えてはいなかったのです。神は一度に人を完全にしようとはしていられません。人それぞれに応じてキリスト信仰に導くために働きかけ、回心させ、その後も一歩一歩と示し、それを受けて進むとまた次の幻を示して進ませてくださるのです。ですから今読んだ聖書の中にも

「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全なものになっているわけでもありません。何とかして捉えようと努めているのです。」(フィリピ書2の12)とありますが、回心前の自分はいつも焦っていたが、回心した後の今、思うことは、あのダマスコへの途上、思いもよらない時にキリストに捉えられて、生涯の大目標、大ビジョンを示された。それからはキリストが一歩また一歩と新しい目標を示して導いてくださる。それは自分が、主が知っていられるままの自分をささげて行こうとしていることを知られて、主が(とら)えていてくださるのだと信じていたからなのです。それでフィリピ教会の信者にも、主への信頼を大切にし、恐れおののきつつ、つつしんで救われた生涯を(まっと)するように勧めているのであります。

 

一、 驚くべき救い

ここでパウロのことばを読むと、注目すべきことが三つあります。

(イ)   第一は「救いを達成するよう努めなさい」という句です。この「努める」というのは苦心しながら造りあげるという意味でありますが、誠実に追及して行くということです。ところが救いは自分のちからで達成できるものではなく、神の恵み、神からくださるものであります。私たちはその神の賜物、御恵みを誠実に、感謝して受けなければなりません。自分の姿勢、在り方をかえねばならないのです。

 

(ロ)   そこで、フィリピ書2章5〜11を改めて読んでみましょう。

ここでパウロは、キリスト信者であるあなたがたは、何よりもキリストのこと、キリストがあなたのためにしてくださったことを深く思ってみなさい、とすすめているのです。キリストがあなたの救いのために人となって世に来てくださったこと、キリストは神たる方であるのにご自分を低くし、虚しくして私たちと同じ人となって、しかもしもベの形をさえ取られ、あなた(がた)の救いのために、死に至るまで、十字架の死に至るまで神のみ旨と計画に服従されました。パウロはこれを「ただこの私のために」と深く心に受けとめました。彼とともにキリストが十字架で死なれたのはあなたの救いのためだとは思われませんか。

 

パウロは十字架の主イエスを仰いで、本当の謙遜を学び知りました。パウロは他の教会に送った手紙の中でも(コリント第1の手紙15章8〜10)十字架の後復活して弟子たちに顕われた主のことを語って

「そして最後に月足らずで生まれたような私にも現れました」といっています。

あの偉大なパウロにある何という謙遜さでありましょう。

私たちはこのように主イエス キリストのお陰で、御恵みで救われたのですから、自分の能力で救いを獲得したなどど(つゆ)思わず、ただ神の(あがな)いの御恵みにより救いに入れて頂いたことをひたすら感謝し、主の御名を(ほめたた)えたいのであります。

 

(ハ)「己が救いを(まっと)うせよ」とあるのはどういうことなのでしょうか。

パウロは「自分の罪を悔い改ためて、キリストを救い主として受け入れよ」と言っているのではないのです。この手紙を受取ったフィリピ教会の人々は既に悔い改めて、キリストの許しを与えられていると信じている人々ですから、この人々にはもう新しい人生の歩みは始まっているのですから、これからの生涯を心をこめて主の御恵みに答え、み心にかなって歩むようにしてくださいと願っているのです。

 

悔い改めて信仰を告白し、主イエス キリストを自分の心と生活、言葉と行ないとの内に迎え入れるというのは信仰の目指す最後の目標ではなく、以後の信仰生活の第一歩であるのだから、これからあなたの生涯の救いを(まっと)うするため、また救われた恵みの大きさを充分に経験し、味わって行くために、努めて主の前に誠実に生きようではありませんか。主はあなたを救いに導かれたのですから、これからもあなたと共にいて、助けてくださるのです。 それにあなたもそう願っていられるのでしょう。

パウロはそれを、「恐れ(おのの)いて」といっておりますがこれは昔からよく言う「戦々恐々(せんせんきょうきょう)薄氷(はくひょう)()むが(ごと)し」という、どこかおっかなびっくりというのではなく、主の前にきわめてつつしみ深く誠実にと云っているので、どこまでも主に信頼して、主によって与えられた救いの約束と、救いを受けた自分の生涯を大切にして、日々主に心を向け、主を(かしこ)みつつ、また主の御導きを切に祈って行くようにと言っているのであります。

 

二、信仰者にもある心の(まど)

(イ)パウロは多くの信者から相談を受け、指導に当ったことと思われますが、彼自身の歩みについて戸惑ったことはなかったでしょうか。これについてローマ書が語るところによれば彼も(まど)いなやむことがあったのです。

「私は自分のしていることがわかりません。自分が望んでいることは実行せず、(かえ)って憎んでいることをするからです。」(ローマ7の15)

その上近代の人と同じように、

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」とまで云うのです。(7の24)

これを読んだ時、自分も同じようだとは思われませんか。私たちも時に愚かなことを言ったり、行なったりして、すぐ後で「なぜ私はあんなことをしたのだろう」と自分に言う私たちなのです。私たちもまたパウロと同じように正しいことは考えるのですが却々(なかなか)その通りに行なえない。罪はいつも身近にあるのです。

「自分が悪いのではない悪魔(サタン)が自分を(おとしい)れて間違いをさせるのだ」などという人がありますが責任はサタンにはなくて弱い自分にあるのです。神の御前ではそういうことになるのです。してみると私たちは戦々競々(せんせんきょうきょう)として神がよしとしてくださる生き方をしなければならないのではありませんか。

 

(ハ)「救いを達成するよう努めなさい」とありますが、どうすることなのでしょうか

ヘブライ人への手紙第12章には

「すべての重荷や(から)みつく罪をかなぐりすて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」

とあります。人生はマラソン競争のようなもの、私たちは主イエスを主として心に受けいれた時から人生のマラソンが始まっています。そうして地上の生活を終えて栄光に輝く主のみ許に行くまで続きます。パウロもそうでした。私たちも同じように信仰の(はせ)()を走るのです。その途中には平らなところも急坂もあって疲れ果てることもありましょう。予期しない生涯に出くわして、絶望しそうになることもあります。しかし一度決断して走り出したのですから、自分を鞭打って進まねばならないのです。努めねばならず放棄してはならないのです。ふと気がつくと主イエスも一緒に走っていてくださったのです。

 

三、回心と新生

回心と新生とは表裏一体のことばであります。回心すれば新しい生き方が始まるわけです。生まれると云えば、成人で生まれてくる人はありません。キリスト信者の品性は時が経てば自動的にできてくるものではありません。

 

「回心」という言葉には「変る」という意味が含まれています。「生れ変り」であります。自己革命と言ってもよいのです。

17世紀の英国の信仰の作家ジョン バニヤンは(てん)路歴(ろれき)(てい)という書を書きましたが、これは地上より天国に至る信仰者の旅というで、その途中で出会う色々と経験する試練をって信仰生命の危険にさえ会うことを語っています。

 

主イエスの弟子ペトロのことは皆さんもよく知っていられます。彼ははじめバプテスマのヨハネのところへ行きました。それから弟のアンデレと一緒に主イエスの許に行って弟子になりました。日夜主と共にいて多くの教えを受け、信仰も成長して行きましたが、主イエスの十字架にかかられる前に敵を恐れて、「主を知らない」と言ったのでした。十字架の後復活された主イエスに故郷ガリラヤで面会して「お前は私を愛しているか」と聞かれたのが彼を立ち直らせました。使徒言行録に現われたペトロはもう戸惑いから解放されていました。以前に比べて何という変り方でしょう。「主と福音のためには命をも惜しまない」使徒たちの指導者となっていました。これは復活していつも共にいて導いてくださる主イエスにあるがままの自分を全く明け渡したからではありませんか。

 

私たちも三歩前進しても二歩後退し、また三歩前進するという不甲斐ない自分であっても、あるがままに、すっぱりと己という城を主に明け渡してしまったらどうでしょうか。キリストはそれを望んでいられるのです。こうして私たちは信仰的に、霊的に成長して行くのです。

 

結び。生れ変りと生長

主イエスを信じて生れ変ることは一度ですがその後の生涯では何度でも悔い改めます。更に変らねばなりません。何度でも脱皮するように新しくならねばなりません。

 

あなたの生涯を、主イエス キリストに、精霊の導きに、繰返しお(まか)ってさいはいもあってあげ、御旨よう

 

初めに言いましたように、もう一度、神があなたと共にいられることと、その神からあなたはどんなに働きかけられているかを、深く思っていられますか。あなたは日々、常に新しく、主に心の扉を叩かれていると思っていられますか、とおたずねして今日の説教を結びます。

(1997年10月19日)