聖なる御名をたたえよう

宮内俊三

聖書;旧約詩篇第103編2

新約第2コリント書9章1~15

 

私は幼稚園児に、朝来た時には「お早よう」。帰る時には「さようなら」。何かしてもらった時にはその人に「ありがとう」を忘れないようにと言います。

 

何事によらず感謝することは双方を幸せにします。殊に困った時には、心を静めて「自分は神に感謝することがあるのではないかしら」と考がえてみることは大切だと思います。「あなたは心から神に感謝することはありませんか」と尋ねられたら、

「そうですね。何よりも健康を与えていてくださる神に感謝します。子供のいること、生活に必要な収入があること、やり甲斐のある仕事、その他色々と感謝することが多いのです。」と答えられる方は多くいられるでしょう。

 

1.        感謝するということ

豊かな実り、美しい自然、紫に輝やく山なみ、テーブル一杯のご馳走、幸せな家庭、社会的地位の保証等、これでは感謝せずには居れないわけですが、そうは行かないこともあります。困難に直面している場合にはそうは行きません。

 

(イ)  困難に直面している人

 たとえば癌を患って、手術を受ける直前の人。ほんの2,3週間前に最愛の人を亡くした人。一人で食事をして、テーブルの椅子が一つ空いている。最近失業した人、このような人は何と感謝するでしょうか。

 

 私は「聖歌」という讃美歌集の中に好ましく、皆さんと共に歌いたい歌が数々ありますが、その1つは604番です。

 のぞみも消えゆくまでに 世の嵐に悩む時

 数えよ主の恵み 数えよ主の恵み

 数えよ1つずつ

 数えてみよ 主の恵み。

とわたしも何度も繰返して歌っています。

 

(ロ)  この感謝を聖書に語ってもらいましょう。

それは詩篇103編2に

「わたしの魂よ、主をたたえよ

主の御計(おんはか)らいを何一つ忘れてはならない」

というのです。この聖句には二つの感謝の段階が示されています。

 

一、は私たちの人生には必要なものが備えられていることです。食べ物と住居が与えられている。それに他の人々との関係も良好だ、これらのことに感謝するのは当然のことです。

 

二、しかし更に深い感謝は、私たち自身と私たちにこの人生を与えていてくださる神への感謝です。先のものは生活に欠くことができませんから大切なのに違いありませんから、感謝といえば、先ずそれらのものを何よりも大切なものと考がえ、その余りで神を考える人が多いと思いますが、本当はこの第二のものこそ私たちの生涯にとって最も大切なものです。

「私の魂よ、主をたたえよ

その慈しみは世々とこしえに

主を畏れる人の上にある。」

とゆっくりと自身の魂に言い聞かせるように抑揚をつけて、自分を支えて下さる、主の永遠の大いなる愛を讃えたいのです。

 

 旧約の民ヘブライ人が「主のめぐみ(ヘセッド)」という時、国民全体としても個人も様々な困難試練に会ったが結局神の変ることのない(やさ)しい愛に導びかれて来た、と世々に御名を讃えて来たのであります。中でも神の最大の愛は、御子イエス・キリストを賜わったことです。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち主は豊かであられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(第二コリント書8章9)

ここで私たちが心を変えて、何よりも覚えねばならないことは、神の変らぬ御愛と、私たちの救いのために御子イエス・キリストを世に遣わしてくださったことであります。

 

2.本当の感謝

本当の感謝と言えば、神がもっと、更に自分たちを恵んでくだされば、というのではなく、私たちが過去にまた現在に受けている神の恵みについて深く思い、それを他の人に(わか)つことで自分の内に生れてくるのであります。ましてイエス・キリストを知れば知るほど、主は私たちに生きる鍵を与えてくださっていることがわかり、本当に感謝する者となるのです。

 

.喜びの爆発

喜こびの爆発とは自分の溢れる喜こびで、人を(よろ)こばせることです。使徒パウロは生活に窮している人々を助けるために、「どうぞあなたがたの心を広くして捧げものをしてください」と到る所で訴えています。一人でも多くの人々が感謝するように主の恵みを広げて行きましょう。そうすればあなたも更に恵まれますと訴えたのです。

 

ロ、すべての恵みは無限に大いなる主から出てくるのですから利己的な喜こびのみを求めず、他の人々と共に(よろ)こぶ者となれば、益々神の恵みの大きさを知ることができます。

自分のまわりにいる人々をも感謝する人々にしたいと私たちは願い続けています。

 

3.究極の感謝

 恵みを人に分つことの最たる方は神ご自身であります。その御恵みの最大のものは、私たちの祝福のために、この世に遣わされた、救い主イエス・キリストであります。その主イエスにあなたの心の目を向けてくだされば、そして主を信じて心に受け容れてくだされば、主はあなたの人生を日々感謝に変えてくださいます。一人でも多くの人がこの主に向ければ世界は変って来ます。

 

(イ)、人生は長い旅のようなものだと色々の人が言っています。徳川家康は

「人の世は重荷を負いて遠き道を行くが如し、急ぐべからず、怠たるべからず」と言いました。前回にも同じように引用しましたが、17世紀英国に出た信仰の人ジョン・バニアン(1628~88)をもう一度ここに取り上げてみます。

 

彼には日本語に訳されて「天路歴程」と名づけられた著書があります。これは巡礼者の進路(ピルグリムス プログレス)というのが原著の名であります。

 

彼は当時の英国の政府や教会の政策であった反プロテスタントのやり方、即ち公開の場で教職以外の者は説教をしてはならない、というのに反対して、福音信仰について語って止まなかったので、捕らえられ投獄されました。その書のはじめには次のように書いてあります。

『私がこの世の荒野を歩いて行くうち、私はある洞窟に出会うた。そこで私は眠ろうと横たわった。そのうち一つの夢を見た。一人の男がぼろを身にまとい、とあるところに立ち、手には一冊の本を持ち、背には大きな荷物を負うていた。彼はその本を読んで泣き、耐えられなくなって悲しみ、震え声で「私はどうしたらよいのでしょう」と言った』とあります。この洞窟で夢を見ているのも、ぼろ着をまとっているのもバニヤン自身のことです。

 

官憲はバニヤンに、教職でない彼が禁を冒して説教することを止めると誓約すればいつでも釈放するというが、彼が「牢を出たらそこで説教する」というものですから、つい12年も牢獄にいることになりました。バニヤンには盲目の娘がいて時々母親に手を引かれて面会に来ました。

 

この天への旅人の道には越えねばならぬ山も、渡る川も、失望の泥沼もあるが、旅路の終りには天地万物の創造者でいられる神が愛と喜びをもって迎えてくださる。というのがこの物語であります。世界のベストセラーズと云われる聖書に次いで多くの言語に翻訳されている本であります。

 

(ロ)     幸わいな人生、という時多くの人は、この世の生活のうちで沢山のものを与えられ、(ゆた)かな食糧に恵まれ、立派の住居と流行の衣服、それに車、屋敷の中にはプールまである。まるでメリー・ゴー・ラウンドのようにいつまでも続くようにと人は願っていますが、こんなのが人生の極致でしょうか。たとえ貧しくとも神との間に良い関係があり、家では皆、神を信じているので平和と(よろ)こびがあり、互いに大切に思いあっている。そうして永遠なる恵み深い神に信頼しているから、死と向いあっても心は平安である。使徒パウロに言わせれば、

「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて力づけてくださいました。そして私は獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い者から助け出し、天に在るご自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン」(第二手も手書4章17~18)

これは神を信じる者に共通の告白であります。

 

(ハ)     最後にもう一度パウロの(ことば)を味わいましょう。「言葉で言いつくせない贈りものについて神に感謝します」(第二コリント書9章15)神の恵みには色々のものがあります。わたしたちは一膳のご飯のためにも神よりの賜物と心より感謝して頂きますが、最大の御恵みは、主イエス・キリストであります。この主を信じて永遠の生命への希望が与えられました。また紆余曲折はありましても一事も無駄にならず散々楽しませていただいた人生の旅路でした。私は引越しだけでも生れてから28回も致しました。今度は29回目になります。他の場所に住むか、主にお目にかかれる引越になるかわかりませんが、今まで人一倍色々な経験をさせていただきました。これらすべては言い尽くせない感謝をもたらしてくれました。これからも感謝とともに「主に栄光あれ」と叫び続けます。

1997年11月30日

 

(記者のコメント;宮内牧師の一生は、数年の文通を経て結婚した愛妻は最初の出産で亡くなり、次の奥さまとの結婚でも愛する赤子を亡くされ、成長した長男に自殺されるなど、他人目からは苦難続きでした。この説教がこの様な人生を送られた方の晩年のメッセージであることを思う時、その意味の深さに思いを致します。)

 

聖なる御名をたたえよう

宮内俊三

聖書;旧約詩篇第103編2

新約第2コリント書9章1~15

 

私は幼稚園じに、朝きた時には「おはよう」。帰る時には「さようなら」。何かしてもらった時にはその人に「ありがとう」を忘れないようにと言います。

 

何事によらず感謝することは双ほうを幸せにします。殊に困った時には、心を静めて「自分は神に感謝することがあるのではないかしら」と考がえてみることは大切だと思います。「あなたは心から神に感謝することはありませんか」と尋ねられたら、

「そうですね。何よりも健康を与えていてくださる神に感謝します。子供のいること、生活に必要な収入があること、やりがいのある仕事、その他色々と感謝することが多いのです。」と答えられる方は多くいられるでしょう。

 

1.                                                            感謝するということ

豊かな実り、美しい自然、紫にかかやく山なみ、テーブル一杯のご馳走、幸せな家庭、社会的地位の保証等、これでは感謝せずには居れないわけですが、そうは行かないこともあります。困難にちょくめんしている場合にはそうは行きません。

 

(イ)                                                           困難に直面している人

 たとえば癌を患って、手術を受ける直前の人。ほんの2,3週間前に最愛の人を亡くした人。一人で食事をして、テーブルの椅子が一つ空いている。最近失業した人、このような人は何と感謝するでしょうか。

 

 私は「聖歌」という讃美歌集の中に好ましく、皆さんと共に歌いたい歌が数々ありますが、その1つは604番です。

 のぞみも消えゆくまでに 世の嵐に悩む時

 数えよ主の恵み 数えよ主の恵み

 数えよ1つずつ

 数えてみよ 主の恵み。

とわたしも何度も繰返して歌っています。

 

(ロ)                                                           この感謝を聖書に語ってもらいましょう。

それは詩篇103編2に

「わたしの魂よ、主をたたえよ

主のおんはからいを何一つ忘れてわならない」

というのです。この聖句には二つの感謝の段階が示されています。

 

一、わ私たちの人生には必要なものが備えられていることです。食べ物と住居が与えられている。それに他の人々との関係も良好だ、これらのことに感謝するのは当然のことです。

 

二、しかし更に深い感謝は、私たち自身と私たちにこの人生を与えていてくださる神への感謝です。先のものは生活に欠くことができませんから大切なのに違いありませんから、感謝といえば、先ずそれらのものを何よりも大切なものとかんがえ、その余りで神を考える人が多いと思いますが、本当はこの第二のものこそ私たちの生涯にとって最も大切なものです。

「私の魂よ、主をたたえよ

その慈しみはよよとこしえに

主を畏れる人の上にある。」

とゆっくりと自身の魂に言い聞かせるように抑揚をつけて、自分を支えて下さる、主の永遠の大いなる愛を讃えたいのです。

 

 旧約のたみヘブライ人が「主のめぐみ(ヘセッド)」という時、国民全体としても個人も様々な困難試練に会ったが結局神の変ることのないやさしい愛にみちびかれて来た、と世々に御名を讃えて来たのであります。中でも神の最大の愛は、御子イエス・キリストを賜わったことです。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち主は豊かであられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(第二コリント書8章9)

ここで私たちが心を変えて、何よりも覚えねばならないことは、神の変らぬ御愛と、私たちの救いのために御子イエス・キリストを世に遣わしてくださったことであります。

 

2.本当の感謝

本当の感謝と言えば、神がもっと、更に自分たちを恵んでくだされば、というのではなく、私たちが過去にまた現在に受けている神の恵みについて深く思い、それを他の人にわかつことで自分の内に生れてくるのであります。ましてイエス・キリストを知れば知るほど、主は私たちに生きる鍵を与えてくださっていることがわかり、本当に感謝する者となるのです。

 

.喜びの爆発

よろこびの爆発とは自分の溢れる喜こびで、人をよろこばせることです。使徒パウロは生活に窮している人々を助けるために、「どうぞあなたがたの心を広くして捧げものをしてください」と到る所で訴えています。一人でも多くの人々が感謝するように主の恵みを広げて行きましょう。そうすればあなたも更に恵まれますと訴えたのです。

 

ロ、すべての恵みは無限に大いなる主から出てくるのですから利己的なよろこびのみを求めず、他の人々と共によろこぶ者となれば、益々神の恵みの大きさを知ることができます。

自分のまわりにいる人々をも感謝する人々にしたいと私たちは願い続けています。

 

3.究極の感謝

 恵みを人にわかつことの最たる方は神ご自身であります。その御恵みの最大のものは、私たちの祝福のために、この世に遣わされた、救い主イエス・キリストであります。その主イエスにあなたの心の目を向けてくだされば、そして主を信じて心に受け容れてくだされば、主わあなたの人生を日々感謝に変えてくださいます。一人でも多くの人がこの主に向ければ世界は変って来ます。

 

(イ)、人生は長い旅のようなものだと色々の人が言っています。徳川家康は

「人の世は重荷を負いて遠き道を行くが如し、急ぐべからず、おこたるべからず」と言いました。前回にも同じように引用しましたが、17世紀英国に出た信仰の人ジョン・バニアン(1628~88)をもう一度ここに取り上げてみます。

 

彼には日本語に訳されて「てんろれきてい」と名づけられた著書があります。これは巡礼しゃの進路(ピルグリムス プログレス)というのが原著の名であります。

 

彼は当時の英国の政府や教会の政策であった反プロテスタントのやり方、即ち公開の場で教職以外の者は説教をしてはならない、というのに反対して、福音信仰について語ってやまなかったので、捕らえられ投獄されました。その書のはじめには次のように書いてあります。

『私がこの世の荒野を歩いて行くうち、私はある洞窟に出おうた。そこで私は眠ろうと横たわった。そのうち一つの夢を見た。一人の男がぼろを身にまとい、とあるところに立ち、手には一冊の本を持ち、せには大きな荷物を負うていた。彼はその本を読んで泣き、耐えられなくなって悲しみ、震え声で「私はどうしたらよいのでしょう」と言った』とあります。この洞窟で夢を見ているのも、ぼろぎをまとっているのもバニヤン自身のことです。

 

官憲はバニヤンに、教職でない彼が禁を冒して説教することをやめると誓約すればいつでも釈放するというが、彼が「牢を出たらそこで説教する」というものですから、つい12年も牢獄にいることになりました。バニヤンには盲目の娘がいて時々母親に手を引かれて面会に来ました。

 

この天への旅人の道には越えねばならぬ山も、渡る川も、失望の泥沼もあるが、旅路の終りには天地万物の創造しゃでいられる神が愛と喜びをもって迎えてくださる。というのがこの物語であります。世界のベストセラーズと云われる聖書に次いで多くの言語に翻訳されている本であります。

 

(ロ)                                                           さいわいな人生、という時多くの人は、この世の生活のうちで沢山のものを与えられ、ゆたかな食糧に恵まれ、立派の住居と流行の衣服、それに車、屋敷の中にはプールまである。まるでメリー・ゴー・ラウンドのようにいつまでも続くようにと人は願っていますが、こんなのが人生の極致でしょうか。たとえ貧しくとも神との間に良い関係があり、家では皆、神を信じているので平和とよろこびがあり、互いに大切に思いあっている。そうして永遠なる恵み深い神に信頼しているから、死とむかいあっても心は平安である。使徒パウロに言わせれば、

「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主わわたしのそばにいて力づけてくださいました。そして私は獅子のくちから救われました。主はわたしをすべての悪い者から助け出し、天に在るご自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン」(第二手も手書4章17~18)

これは神を信じる者に共通の告白であります。

 

(ハ)                                                           最後にもう一度パウロのことばを味わいましょう。「言葉で言いつくせない贈りものについて神に感謝します」(第二コリント書9章15)神の恵みには色々のものがあります。わたしたちは一膳のご飯のためにも神よりの賜物と心より感謝して頂きますが、最大の御恵みは、主イエス・キリストであります。この主を信じて永遠の生命への希望が与えられました。また紆余曲折はありましても一事も無駄にならず散々楽しませていただいた人生の旅路でした。私は引越しだけでも生れてから28回も致しました。今度は29回目になります。他の場所に住むか、主にお目にかかれる引越になるかわかりませんが、今まで人一倍色々な経験をさせていただきました。これらすべては言いつくせない感謝をもたらしてくれました。これからも感謝とともに「主に栄光あれ」と叫び続けます。

1997年11月30日

 

(記しゃのコメント;宮内牧師の一生は、数年の文通をへて結婚した愛債は最初の出産で亡くなり、次の奥さまとの結婚でも愛する赤子を亡くされ、成長した長男に自殺されるなど、他人目からは苦難続きでした。この説教がこの様な人生を送られた方の晩年のメッセージであることを思う時、その意味の深さに思いを致します。)