老伝道者の独白

宮内俊三

 

年が老いますとたった今のことを忘れてしまうのに、古いことは沢山覚えているものですから、どうしても昔の話ばかりすることが多くなります。しかし昔のことは皆間違っていたり、悪でもありません。西行法師の歌に

  何ごとも昔を言うは情ありて

   由ある様に偲ばるるかな

とありますが、昔のものでも残るべく、残さねばならぬものが多々あると思います。

 

1932年か33年頃の事だったでしょうか御殿場東山荘で、当時の日本基督教会の牧師の修養会がありました。多分佐波(わたる)先生が中心的に計画されて、教派の牧師の大部分が集って、五日間の大集会であったと記憶しています。その時の記録が残っておりますが、これは文字通り壮挙だったと言わねばなりません。その時の講演者の一人で日本神学校初代の校長川添万寿得先生のされた「牧師と書斎」というのでした。今覚えていますことは、「牧師は教会のために多忙にするのはよいが毎日午前中は自分を書斎に縛りつけてでも研鑽(けんさん)を怠ってはならない」と言われたことや、亀谷凌雲先生が「牧師の生活と工夫」という講演、結論としては安んじて神に委ねれば思いわずらうことはない、と語られたこと、その亀谷先生を紹介された秋月致先生のことば等忘れることができません。当時先輩牧師は後輩に対して厳しくはありましたが、親切であったと思っております。

 

また一人の若い牧師を、まわりのいくつかの牧会の牧師たちがその教会の人々も一緒になって励まし助けて育て上げるのが見られましたが、今の教団に欠けている点かと思います。

 

現在、伝道者の老若の間に断絶の度が余りにも多過ぎるとの印象を持っています。

老人は過去を不眞面目に生きて来たのではなく、それぞれの時に精一杯、自己を鞭打ちながら生きて来たのですが、若い世代の人々はそのようなことを全く無視して、人に聞き学ぼうとしないところにその原因があろうかと思います。そこでこれからのためにも老人の言い分も聞いて貰いたいのです。

 

その一つは、社会人としての成熟の無さ過ぎることであります。この点牧師以外の一般の人々と比べて、余りにも独善的で欠けている点があります。物事を合理的に、常識的に判断するのに不十分です。視野が狭く、経験の少ないためか、自分の考えや感情が標準になって、他に教えることばかりで、他に教えられようとしないのです。私たちの師たるべきものは小児にすらあります。それらから学ばねばなりません。また自分の教会の信者、嘗て信者だった人々、キリスト者でない人、仏教徒をも含めて(つまび)らかに視て、学ばねばなりません。まして先輩には多くの労苦を通して来た経験と学ぶべきものがあるのではないでしょうか。私たちも今日に至るまで、学校の教授方はもとより、どれほど多くの人々の忍耐強い愛のお陰を(こうむ)って来たか知れないのです。

 

次には伝道者の回心ということです。私は伝道者になって以来何度も行き詰りました。教会は旨く行かず、誰からも顧みられずと思いこんで悩みましたし、先輩からは「お前はダメだ」と告げられたり、無視されていると感じることもありました。こうなって私は本当に自分を直視させられました。そうして「自分は罪人だ」と知らされました。伝道者になって八年も経ってからのことでした。「自分には誇るに足るものは何もない」と決定(けつじょう)しました。

 

若い人には些か皮肉に聞こえますが、『あなたは、いつになったら行き詰るかな、と見ている』、と言いましたら「年中行き詰っています」と返事が鸚鵡(おうむ)返しに来ましたから、この人は少しも行き詰ったと考がえていないのだと判断しました。

 

今の牧師はローマ書第七章は読んでも、少しも胸は痛まないのだ、回心など必要無しと考えているのではないかと思いました。

 

今は「牧師」は一つの職業で、そのように出来上っていて、そんな経験はしなくてもやって行けると思っているのではないでしょうか。

 

第三、聖書を読むことについて。

昔の人は「眼光紙背に徹す」と言いました。説教を聞いても、聖書を深く読みこんでいると思えないのです。村田四郎先生が、「毎日聖書を素読すれば説教の題材に事か欠かない」と言われたり、新契約聖書の翻訳者、永井直治先生が、「聖書の内を歩み(たも)うキリストに会う」とよく言われたのを思い出します。

 

説教を聞いても、判断が浅いのです。牧師は「御言(みことば)に仕える人」なのですから、これでは余りにも霊的想像力がなさ過ぎると思います。引用された聖書の言葉が説教の中で少しも発展して行かないのです。また引照した聖句も自ら苦労したのでなく。他の誰かか、他の書物からの孫引きですから力がないのです。

 

今は色々とすぐれた注釈書も多くありますが、それさえも本当に読み込まないのです。出版されてもう古くなりましたがベンゲルの注解と言いますか、聖句(ノモ)()というべきでしょうか、近年新版が出ています。このベンゲルを高倉徳太郎先生はよく読んでいられたと聞きましたが、聖書を泉のようにして、それから多くを吸収すること、(しか)伯々(それぞれ)の人に与えられている霊感を(はたら)かせて頂きたいのです。

 

いくつかの翻訳聖書を読み(くら)べるのも大切なことだと考えます。読むうちに、どうもこの個所(かしょ)の訳語は変だと思って、他の訳を見るとまた違っている。訳者は皆困っているのだと思うことがあります。中には明らかに曲解ではないかと思うこともあります。判り易くしようとして冗長になり原意をうしなっているようなものも窺えるのです。

 

第四、説教について

今の説教を聞いていると、却々(なかなか)(すぐ)れたのに出会いません。牧会においてそれ程重大なものと考えられないのでしょうか、それとも神学校で厳しく訓練されないのでしょうか。第一説教の構成(組立て)ができていません。

 

随分前のことですが、The() Interpreters(インタープリターズ) Bible(バイブル) 12巻の編集者G.H.パトリック博士が来日されて講演された時、説教の準備と構成と自己検討について語られたことを今も印象深く覚えておりますが大変示唆に富んだものでした。

 

漢詩の作法でも「起承転結」と言われますが行き当りの話でなく、よく検討され、構成され、練られた説教が聞きたいものです。

 

他方礼典については形式のことばかり気にかけて服装まで荘重になって行きますが、プロテスタントの主張は何処へ行ったのでしょうか。

 

今は教父世代から、中世教会の偉人たち、宗教改革者たちをはじめ十九世紀以後の偉大な説教者、それに私たちが指導を受けた日本の先輩たちが心血を注いで語り残された説教集を志さえあれば自由に読める時代ですのに本当によく読まれているのでしょうか。

 

私たちは御言(みことば)に仕える者として召されているのに、そのことが軽視されてよいのでしょうか。説教貧困の時代だと考えます。

 

ある人は今の説教は律法の講義のこまぎれのようだと言います。多くは社会改革だの、平和問題と政治づいていることばかりが取り上げられて、個々の人間の救いの問題は等閑に付されているのです。伝道の困難にぶつかって行かねばならぬところが、単なる社会倫理問題とすり替えられ、人の魂の救いの為に労苦することを(じゆっ)()一とからげの論議と運動に逃避(とうひ)して教勢は低下して行っております。

 

「贖罪の問題は大切かも知れないが、キリスト者だけでなく、教会外にある信仰のない大衆をも社会の矛盾や悲惨より救うのが大切だ、そのために教会はさきがけとなり指導的役割を果さねばならぬ」と叫ぶだけでは何も生れて来ないのです。

 

私は真に主の贖罪により生れ変ったキリスト者が社会の要所で活動するのは素晴らしいことだと思いますが、教会の主たる働きは、初代教会より今日に至るまで、イエス キリストの十字架の恵みを信じて生れ変った人を生み且つこれを世に送り出すことであります。各個人の悔い改めと十字架の主キリストを信じて(あた)らしく生きる福音をつたえて止まぬのが教会の最重要な使命であります。

 

社会改革や政治改革か、贖罪信仰かと二者択一的に言われるものではなく、如何なる時代や社会の変化の内に在っても不変なる教会の中心を為す目標であります。

 

第五、牧師の召命について

キリストは教会の(かしら)であり、牧師も信者も、主のしもべであります。それは当然のことですのに、どうして今さら言うのか。それは教会は牧師の生活のためにあるという感じが余りに強いからです。牧師は教会の頭で、指導者だと考えている人が多過ぎるからです。

 

主イエスは「わたしは人を仕えさせるために来たのではなく、人に仕えるために来た」と言われました。教会員が自分の期待するようでなければ腹を立てる人があります。

 

信者と考えが違うなら、何故互いに納得するまで腹を打ち割って話さないのでしょうか。また教会員を牧師に従がわせ、仕えさせようとするよりも、牧師は教会員のために献身するのにその牧師を尊重しない信者がいるでしょうか。牧師は主と主の羊である教会員の霊性のために身を(ささ)げる者であります。

 

エフェソ書第4章12節には「聖徒たちは充分に調えられ、奉仕の働きが進み、キリストのからだが打ち建てられて行く」(私訳)と言っております。もちろん奉仕はキリストの為でありますが、実際には信者一人一人の霊性のために祈り奉仕するのが牧師の忍耐と愛とを以てする働きだとの聖句であります。

(1998年4月23日 レバノン会にて)