「救いを受けた今は」

宮内俊三

聖書 ローマの信徒への手紙 6章1~11

讃美歌 63、263、538

全能の主なる神よ、あなたは秀れた陶工が土より美しい(うつわ)を造るように、この土くれに等しい私たちに精霊によって働きかけて、罪を取り除き、聖なる者に造り変えてくださいます。私たちは最早罪の支配の下におらず、御恵みの内に包まれていることを知り、御名の栄えをひたすら讃美する者で在らせてください。その上主より永遠の命の希望さえ賜わって日々歩ませて頂いておりますことを深く感謝し、尊い御名をたたえて止みません。主イエス・キリストに在って。アーメン

 

はじめに

「ローマの信徒への手紙」第一章から第五章までには、神を知らず、恵みに背いて生きて来た私たちの(みじ)めな人生を真っ直ぐに見つめる機会が人に与えられていること。

 

こうして心に痛みと救いへの渇きを覚えさせると同時に、救い主イエス・キリストが私たちの目に明らかに示されたのであります。

 

この主イエスを知ることが深くなるにつれ救いはまず神の側から私たちに働きかけて、神との正しく、よい関係に立たせ、罪の支配から解放して、神に(あがな)いとられて生きる者としてくださったことと、その幸いを語って来ているのであります。

 

続いて第6唱から第8章に(おい)いては、神の恵みと愛がどれほど宏大なものであるかが語られているのです。

神は救いを心より受けいれた人を更に恵み、祝福し、(きよ)めて生かしてくださるというのです。

 

パウロの時代まで、人々は特別に秀れた人が自分の能力や精進努力によって救いを獲得するものだと考えていましたが。パウロがここに語ることは、神が恵によって私たちを救ってくださっているので、この救いを己がものとするには、ただ信仰と、愛する神への信頼のほかは無いと言うのです。

この神の恵みを信じることの有難たさ。私たちは罪の力から解放され滅亡の運命からも解放され、新しく永遠の生命を与えられるのであります。

 

ところがここに神の恵みを誤解する人々があります。その人々の言うことは、「もし神がどんな罪人をも救ってくださるというのなら、信仰を持った後でも、どんな罪を犯しても神は許してくださるであろう。罪が大きければ大きい程、恵もまた大きい。神は恵の宏大さのために讃美される」というなら、どういうことになるのか。これに対してこのローマ書六章位置は

「恵が増すようにと、罪のなかにとどまるべきだろうか。決してそうではない」

というのです。恵の広大さを経験するためにもっと大胆に罪を犯してもよいかというのに断固として反駁しているのです。

 

一、        罪のうちに留まるべきか

(イ)     神が私たちに救いを与えられる目的は、恵みを誇示されたいからでなく、人を罪から救い出すためです。人が罪に親しんで、更に罪ある生活にのめりこんでいるのを神が喜ばれる(はず)がないのです。そのためにこそ、救い主イエス・キリストを世に遣わされたのですから。主イエスの降誕に先立って、天使の告げたことばは「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言い、主イエスご自身も「人の子は失われたものを(さが)して救うために来たのである」(ルカ19章10)と言われ、信仰による恵みを経験した信者の側からは、「キリストがわたしたちの為に、ご自身をささげられたのは、わたしたちをあらゆる不法から(あがな)いだすため」と告白しているのです。(テトス2章14)

この神のみ心を無視する罪の生活は、自分の心を罪に売り渡して、その奴隷となり、罪の支配下にあるもので、神は罪の支配から私たちを解放してくださるのですから、また罪の下に帰って、もとの木阿弥になれましょうか。

 

(ロ)     神が私たちを救われたのは御栄光を受けた生き方をさせるため

凡て信じる者が神の栄光を身に受けて生きるため、神ご自身が御子イエスを世に遣わし、その主イエスの十字架の苦難と犠牲によって万人の救いを全うし、その上キリストが復活されたのは、私たち()救いを受けた者が、罪については十字架の主とともに死に、復活の主と共に永遠の生命を与えられて、それにふさわしい生活をするようにとの御心に基づくものであります。

 

 神は(きよ)い方であり、罪とそのはたらきとを憎まれるのですから、罪を奨励するような恵みがあるはずがないのです。

 

(ハ)「救い」を他のことばで言い換えますと、(きよ)い生き方に変えて頂く、ということであります。「義とされる」と聖書が言うのは、私たちと神との間に新らしく、よい関係が成立するということです。こうしてわたしたちの生き方が変るのです。(しか)も、これは100%神の恵みによって実現するのです。次の聖言を聞いてください。

「神はわたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって私たちを救ってくださいました。この救いは聖霊によって新らしく生れさせ、新たに造り、(つぐな)いを通して実現したのです。」(テトス3章5)

右の聖言の語るところは、救われて新たに生かされるのは、自分にその力があったからではなく、神からの働きかけによるのです。その働らきかけとは、先ず第一に自分の姿をありのままに見る機会が与えられることです。その機会に、今まで思い及ばなかった「自分」を見つめると、このままでは自分は本当に生きているとは言えない。この自分は正しいことよりも不義に傾くことがある。心の内には丸で二人の自分がいて、正しく清くあることを望んでいる自分と、反対に自分を悪と欲に誘う力があって結局は欲心に傾いてしまう。惨めな人間であると知らされる。

ではどうすればよいのか。ロマ書6章1と2は言う。

「ではどういうことになるのか。罪の中に(これからも)とどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して(十字架のキリストと共に)死んだ私たちが、どうしてなおも罪の中に生きることができるでしょう」

と言っている通り、自分をここまで行き詰まらせてしまった、そうして真の人として生きられなくしたのは罪の力だと(わか)った。もうこれからは罪が自分を支配することを許してはならないと決断する。

 

(ここ)に至るまでには人それぞれ色々と異なる道を辿り、各人に違う動機があるでしょうが、その裏には神の働きかけがあったのです。それを「聖霊によって」と聖書は言っているのです。

 

そこで救いを受ける次の段階は、「悔い改め」と「信仰」であります。

悔い改めとはただ自分の罪を悔むことではありません。心を入れかえて、生き方を変えること、人生を方向転換することです。今まで自分を支配していた罪の支配を決して許さない、これからの自分を導くのは神と、イエス・キリストとそのみ(ことば)、即ち聖書であると決断することであります。

 

 ここではじめて神のみ心と私たちの心とが一つとなるのです。

 

神は人をご自身より引き離す罪を憎み、人の苦しみと悩みのために御心が痛むのです。この神の痛みをそのままにイエス・キリストがこの世に来られました。キリストはその生涯を通して(ご自身罪は犯されなかったが)人を支配する罪の暴力と人間の不幸をつぶさに経験され、全人類の罪の責任を一身に引き受けて、十字架にかかり、ご自身の命をささげてくださいました。そうして復活され、今も常に生きて、信じる者と共にいてくださるのです。この救い主キリストの事実を信じて心に受ける者は救われるのであります。

ここに至るまで、罪の生活の悲惨を痛感した私たちキリスト者は、罪の生活に帰るのは死を意味することになりますから、聖書はそれを次のように語るのです。

「わたしたちが神との交わりを持っていると言いながら闇の中を歩むなら、それはうそをいっているのであり、真理を行ってはいません。しかし神が光の中におられるように私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」ヨハネの手紙1、第1章80下

 

二、        洗礼による例証

このところでは洗礼について説明しているのではなく、洗礼の私たちのその後に及ぼす意義、洗礼後の信者の生き方について訴えているのでありますが、それを明らかにするため、主イエスの受けられた洗礼から見て行きたいのです。主イエスは何のために洗礼者(バプテスマ)ヨハネから洗礼を受けられたのでしょう。

 

イエス・キリストは宣教のはじめに、ガリラヤのナザレの里を出て、ユダヤのヨルダン河畔のヨハネの(もと)に来られ、ヨハネに「洗礼を受けたい」と言われた時、ヨハネはこれをとどめて、「私こそあなたから洗礼を授けていただかねばならぬ者です」と云うと「今は、私が、あなたより洗礼を受けることを許してほしい。私としては当然為すべきこと()しおえる責任があるのです」と言われ、ヨハネもこれを理解して、ヨルダン河に入り主イエスに洗礼をしたのです。ここで主が「当然為すべきこと」((ただ)しいこと)と言われたのは、主は罪深い人間の代表者としてということであります。ご自身は罪なき方ですが、罪ある人間を代表して洗礼を受けられました。ここに人はみな悔い改めて、信仰告白のしるしとして洗礼を受けるべきであることを明らかにしていられるのであります。主イエスが水から上がられる時、ヨハネは主イエスの上に降る聖霊を見ました。これは救い主としての御生涯とみわざをあらわすもので、殊に十字架上の死と復活、昇天と精霊として私たちの内に宿ってくださる。こうして私たちのたましいが清められ、神の内に在る者として生涯を歩ませて頂くことを語っているのです。

 

聖書が語りかけるところによれば、悔い改めた時に私たちは十字架の主と共に死に、復活の主と共に新しい生涯に生かされ、その上主は常に私たちの導き手、苦難の時の慰め主、励まし手として働きかけていてくださるというのです。これが私たちの信仰です。

 

三、        私たちは神の恵みの下にある。

「神の宏大な愛は、どんな罪人をも許して、救ってくださる」という救いの恵みを誤解して、救いを受けたと言いながら、神の恵みに甘えて、相変わらず罪の生活をして、どこまでの許して頂けるというのは間違っています。これでは(きよ)い信仰生活をするようにと与えてくださった神の真の恵みを無視して、神が罪の生活を助けられることになります。私たちは回心した後、罪の中に帰ってはならないので、もう目指す方向は決まっているのです。「犬が自分の吐いた物のところへ戻ってくる」ように、また「豚が体を洗ってまた泥の中を転げまわる」ようであってはならないのです。

 

 しかし信仰生活はただ決心や努力だけで、きよく、正しく、真実にというわけには行かないのです。キリストの愛と恵みがそうさせてくださるのです。そこで第2コリント5章14と15のみことばを繰り返して、心深く言い聞かせて頂きたいのです。

 

「なぜならキリストの愛が私たちを駆り立てているからです。私たちはこう考えます。即ち一人の(かた)がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方がすべての人のために死んでくださったその目的は、生きている人たちがもはや自分のために生きる者ではなく自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることになるのです。」

 

キリストの愛は過去の出来事でなく、十字架と復活の主キリストは今、あなたの内に活きて、働いてくださるのですから、この主のために生かされ、生きましょう。主はあなたを(きよ)めて用いてくださいます。この信仰こそが大きい主の働きに連動しているとの核心を(ゆる)がすことなく、日々祈って、新しく、主を仰ぎ、御恵にみたされ、感謝に溢れて生きようではありませんか。

(1998年8月30日)