主と共に生きる

宮内俊三

 

聖書;コリントの信徒への手紙一 第15章1〜11

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。

どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」

 

 

今日は終戦後五十五回目の記念の日ですが、うわべだけは日本中平和一色に見えますが、本当に平和なのでしょうか。

今も全世界は平和という訳(わけ)にはゆかず、何処(どこ)かで戦争が行なわれ、また戦争の準備がなされている状態であります。

先日漸く(ようやく)平静を取り戻したバルカン半島のコソボのことを考えますと、大体はキリスト教徒だというセルビア人がコソボ州の多数を占めるイスラム教徒たちを追い出してしまおうとしたことから戦いが始まったように思います。宗教的対立というのでしょうか。

しかし争いを起したセルビア人にしても、もし彼らが真にキリスト信者であったなら、このようなことにはならなかったと思うのです。

 

私たちが信じている主イエス キリストは「平和の君」と呼ばれた方で、ご降誕の時に天使たちの歌った通り、「地には平和、人には喜び」の源でありますから、本心からその平和の君を信じている人々が、あのような理不尽(りふじん)なことをする筈(はず)はなかったのです。

 

今の人々にはこの平和の君キリストの御心(みこころ)を無視して、聖書で言う「肉のこと」をまず第一にして「霊のこと」を却(しりぞ)けてしまうのです。平和の君に従うことをしないのです。主に従わない限り、この世界には本当の平和はないのです。こういうわけで、キリストの福音を信じる者の責任はますます大きいのであります。

 

ところで今日はコリントの信徒への第一の手紙15章1〜11をとりあげて語らせて頂くことにしました。この個所(かしょ)はキリストの使徒パウロが、私たちの信じる復活の主の福音について語っているのですが、この個所(かしょ)について語るのは、春の復活節がふさわしいかも知れませんが、パウロは復活節の説教のためにこれを書き残したのではなく、信者の生涯を生かしていられるキリストの御存在が私たちの信仰の中心であることを語っているのであります。すなわちキリスト者とは、「十字架にかかり、私たちを罪の力より救い出し、永(えい)達者(たつしゃ)でいます神に向って生かすために復活して、今も私たちと共にいてくださる主イエス キリスト」について語っているのです。

 

そこで今日の聖書の箇書を私なりに自分の納得の行くように訳してみましたので、今ゆっくりと読みます。そうすれば今日のメッセージを聴いてくださる皆様にわかって頂け、もうそれだけで、今私が語ろうとしていることを、信仰ある皆様によく了解(りょうかい)して頂(いただ)けると考えています。ゆっくりと読みますから、どうぞ心深くおききください。

 

1コリント、15の1〜11

1.  ところで兄弟姉妹たちよ、福音とは何なのか、ここで説明しましょう。それは私があなたがたに宣()べ伝え、あなたがたがこれを信じて受け、今それに立っているものですから。

2.  私が前に宣()ベ伝えたことばをあなたがたが堅く保ち、軽々しく信じたのでなければ、それによってあなたがたは救われるのです。

3.  というのは私たちも以前に宣()べ伝えられたものを心に受け容れて、それを先()ずあなたがたに伝えたのです。それはキリストが聖書のことば通り、私たちの罪のために死んでくださったこと、

4.  そうして葬られたこと。また聖書のことば通り、三日後に復活させられたこと。

5.  そうしてケファ(ペトロ)に顕現(けんげん)され、次いで十二使徒にもご自身を現わされ、

6.  その後500人以上の兄弟姉妹たちにご自身を顕わされました。その人々のうちの多くの者は今もこの世に在()りますが、もう眠りに就いた人々もあります。

7.  その次には(主イエスの弟)ヤコブに現われ、それからすべての使徒と呼ばれていた人たちにも御自身を顕わされました。

8.  その上、ついには月足らずで生れたような私にも、ご自身を現わされました。

9.  この私自身について言えば、私は使徒たちのなかでも最も小さい者で、しかも神の教会を迫害した者なのですから、使徒と言われるにふさわしくない者なのです。

10.    ところが神のお恵みによって現在の私があるのです。その上私に賜わった主のお恵みは尽く無駄にならないで、上に言った人々すべてよりも多く働らいて来ました。それもこの私(の力)ではなくて私に寄り添うてくださった神の恵みそのものによるのでした。

11.    ですからこの私はもちろん、あの人たちも、そのままに宣()べ伝えられたところを、あなたがたも心に深く受け容れられたのです。

 

 

ここでパウロは福音の受容について語りはじめます。この福音は自分の発見や創作ではなくて、

イ.      これは私が受けたものをあなたがたに伝えた。

ロ.      それをあなたがたが聴いて、信じた。

ハ.      その上に立ってあなたがたは今生きている。

ニ.      教会にはこの福音が寄託されていて、これを伝達して行く使命を負わされている。

とのことをパウロは語っているのであります。

 

一、      福音とは何か

福音とは、キリストが私たちの罪のために死んでくださったこと。

その御身体が葬られたことと、

三日目に復活されたこと、これに尽きるわけであります。

これを深く信じて受ける者には再生の救いと永遠の生命が約束されるのであります。

 

二、      復活の主の顕現(あらわれ)について

イ.         マルコ福音書16章7節を見ますと、復活の日の朝早く、主を葬った墓に来た婦人に対して告げた天使のことばがあります。

「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と。

今日の聖句にケファというのはペトロのことであります。

ロ.         次には弟子たちを呼んだがその一人ユダは既に死んでいました。

主の十字架の下にいた弟子はヨハネだけでした。

ハ.        500人以上の信者たち、この人々も恐れ、戸惑っていました。

ニ.         主の弟ヤコブ

ホ.         すべての使徒(遣わされた者。福音書にある伝道に遣わされた人々、70人)

ヘ.        最後にサウロと呼ばれていて、後にパウロと名を変えた、この手紙を書いた本人。

主がご自身を現わされたこの人々には共通するものがあります。それは心に何かの傷の痛みを持っていた人々ということです。

国語辞典で「傷」「瑕」というのを調べたら「すねに瑕を持つ」ということばに説明があって、「ひけ目に感じている」とありました。

この人々は皆主イエスを傷つけたり、主の愛を裏切ったり、主に対して不寛容だったりして、それを心から悲しみ悔いている人々であります。

ペトロは総督ピラトの官邸で、主イエスの弟子かと聞かれて「私はそんな人は知らない」と言いましたが、主に見つめられて、外に出て激しく泣きました。主が十字架に架けられた時には遠くから見ていました。

ヤコブは主イエスの弟であります。主が宣教の活動を始められた時、世間の(うわさ)を気にしてその働きを止めさせようとしました。(マルコ3章21)、兄弟たちは「イエスを信じていなかった」のです。(ヨハネ7章5)

そうして最後にはパウロが(みずか)らのことを告白して、未熟児のような自分を主ご自身が(おとず)れて、救ってくださったというのです。

 

三.何故復活の主は顕現されたのか。

それは、主イエス キリストは生命の源、大生命そのもので在られることを示されたのですが、それもこの人々はじめ信者たちへの愛のためでした。

ここに挙げられた人々は殆んど最初の教会を代表する人々でありますが、この時期は特別な啓示の時期で、主が可視的(目にみえる)方法で、ご自身の復活を信者たちに知らせて、信仰を強める必要があったのであります。今はどうでしょうか。それについては弟子トマスのことを語る必要があります。これはもう一つの顕現でした。主の復活を疑ったトマスに現われて主は、「信じない者でなく、信じる者になりなさい」「お前は、私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われました(ヨハネ20章27〜28)

教会の原始の時期には主は可視的(目にみえる)方法で信者を導かれましたが、今は聖書のことばにより、肉眼で見ないでも信仰によって、主を実感する者となれるのです。

 

今も主キリストは昔と変ることなく、十字架と復活の主として私たちと共に居て、罪を赦し、日々共に生き、共に歩み、私たちを生かして、永遠の命に導いてくださる。

今、私たちは心を開いて主を迎え、信じて行く時代に生きているのであります。

 

四.福音を心深く受ける者の幸せ

イ.どうしたらこの福音を心に受けて、これに生かされた者になれるでしょうか。

パウロは(みずか)らのことを、未熟児のよう、どの使徒よりも小さい者、と言いました。他の人から()しざまに言われることもありました。「弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちがいる」と書いています(コリント第2の10の10)しかし自分が主と教会を迫害までしたのに、主は全く赦してくださった「罪の自覚の増すところ、それにまさる主の恵みが凡てを覆って余りがある」と感謝するのであります。

ロ.救いを受けた者の生活は、神の恵みによって生かされた自分が確かに存在して、日々主に心を通わせているのであります。そうして主の前に責任を自覚して生きているのです。

ハ.パウロが告白することは「自分は最も小さい者だのに、誰よりも多く、福音宣教のために、日夜働いて来た、我ながら不思議だ、それもこの私の力ではなくて、私に寄り添うてくださった主イエスのみ恵みによるのだと彼は言うのです。主の恵みに満たされて、昼も夜も主のみわざのために生かされるとは何とすばらしいことだろうと私は思うのです。

二.主イエス キリストが一緒に居てくださるから、私たちは(ひと)()いても孤独ではありません。「わたしはお前をすててみなし子にしない」と主は約束されました。一人歩いても同行二人です。私たちの心の扉を叩いて信仰を持たせてくださるのも主、心を開けば心の深みで共に居て、主を愛することに深まり、主と共に人を愛することに深められて行くのも主の恵みであります。あの使徒の時代と変らず主は私たちに働きかけていられるのであります。

 

結び

イ.  日々自分と共にいてくださる主を瞑想する時を持ちましょう。

主イエスキリストは不死の生命、わが道の光、()()に変わらぬ愛そのものでいます。それを求める時には、心の(うち)に住んでくださるのであります。

ロ.  この主を想って「主よ共に宿りませ」と祈りましょう。

もうひとつの願いは、あなたがたに御言を伝える牧師の為に祈って頂きたいのです。最近私は2年振りにドイツから一時帰って来た孫とその夫との訪問を受けました。彼らは音楽家でありますが、ヨーロッパ各国に在住する日本人のキリスト者と求道者のために働く牧師のいられることを聞かされました。両人ともその牧師を愛し、尊敬しているのです。その方はいつも

「どうぞこの私のために祈ってください。兄弟姉妹の祈りがなくて、どうして私が十字架の主について真実に語り得ましょうか」と言われるというのを聴いて私も心打たれました。ある有名な説教者が語る時、そこに、いつも祈っている人々がいたとのことです。

ハ.もう一つは、聖書のことばがあなたに語れば主が語っていられると確信して(みこ)(とば)を深く読んで頂きたいのです。

 

このようにして私たち、あなた方が自分と共に、また自分の(うち)にいてくださる主イエス キリストの証し人であると思い詰めつつ日々を生かされ、永遠に生きて、人を愛して行ってくだされば平和と喜びはいよいよ増し加わって行くことでしょう。

(1999年8月15日)