2018年更新伝道会ウェスレー回心記念日集会説教

「心に届く言葉」

創世記11章1〜9節、使徒言行録2章1〜13節

青山学院宗教部長

     大島 力 牧師

 

 今夕、私たちは、旧約聖書の一つの箇所と、新約聖書の一つの箇所をともに読みました。この二つの箇所は、大変に対照的な出来事を私たちに伝えています。創世記の11章は、バベルの塔の物語と普通言われている箇所です。そこには人間が新しい技術を手に入れると、それを自分たちの社会の福祉のために用いるのではなく、天にまで届く塔を建てて、有名になろうという傲慢な姿が描かれています。しかし、その計画は途中で中止されていまいました。天にまで届く塔を建てる、つまり、人間が神の位置にまでのぼりつめようという試みは失敗してしまったのです。ただ、このバベルの塔の崩壊の話で重要なことは、その原因が自然の天変地異によるものではなく、つまり外部的な地震や天災によるのではなく、人々の言葉が混乱したためであったということです。すなわち、バベルの塔の計画は、言葉が混乱し、互いに人の言うこと聞かなくなったという、内部的要因によって頓挫してしまったのであります。これは、今日の言葉で言えば、コミュケーションの機能不全が、その計画の中止と崩壊を招いたと言ってよいでしょう。

 

 しかし、先日の日曜日に覚えた、使徒言行録2章に記されている聖霊降臨の出来事は全く、それとは逆のことでありました。イエス・キリストは十字架にかかり、死ぬことによって、イエスを中心とする十二弟子の集団はまさに崩壊してしまいました。これも、弟子たちによる裏切り、また主イエスを知らないと言ってしまう弟子集団の内部的な要因によるものでありました。しかし、にもかかわらず、イエス・キリストが神によって死よりよみがえらされ、40日間、弟子たちに現れることによって、回復への道を歩んでいきました。その、かつてはイエスを裏切ってしまった弟子たちをはじめとする人々は一つのところに「これから自分たちはどうなるのだろうか」と不安を抱えながら集まり祈っていたのですが、その時、聖霊がくだり、弟子たちは全く新たにされて、今度は、勇気をもって福音を全世界に宣べ伝えていくようになった。これが、聖霊降臨、ペンテコステの出来事でありました。

 

 そして、その際に大変に興味深いことは、これまで、おそらくはアラム語で、自信なくぼそぼそとしか話すことしかできなかった人々が、他の国の言葉で語り出し、世界各地から巡礼のためにエルサレムに集まっていた人々の心に届く、そして心に響く言葉で、イエス・キリストの福音を大胆に伝えるようになったということです。「そして、だれもかれも自分の故郷の言葉で、神の偉大な業を聞いて、・・・非常に驚いた」と伝えられています。これは、まさにバベルの塔の話における「言葉の混乱」を乗り越えて、「言葉が回復されて」生き生きとした聖霊の力による、深い意味でのコミュニケーションが回復された出来事であると言ってよいでしょう。大変に注目すべきことです。

 

 私たちは同一言語で話していても、例えば日本語で話していても、お互いの言うことが分からず、そしてその状態が続くと、ついには諦めてもう相手の言うことを聞かなくなってしまうことがあります。これは、世代間のギャップで起こることもありますが、しかし、同世代間でもしばしば起こり得ることです。そして、まさにその人間にだけ与えられている言葉という大切な能力をもって、人を傷つけ、友人を誤解し、はてはその人格を誤解してしまうことがある。家庭がそのことで崩壊し、さらには社会を暗くするということがあります。また、最近ではメールやSNSでのやり取りという、まったく目に見えない形でそのことがなされることがある。現代社会は、コミュニケーションの手段が飛躍的に増えたことによって、むしろ逆に、人と人との間の関係が無残にも容易に断ち切られてしまうことがあるのです。このことは現代の皮肉とも言える現象です。そして、私は、それは形を変えたバベルの塔の現実であり、聖書はそのことを見つめ、どうしたらその状況から脱却できるかが、また救われるかが、今日の課題であると語り掛けている書物であると思います。

 

 私たちは、なかなか自分の力ではそのバベルの塔の現実を克服することが出来ません。語れば語るほど、人間関係の溝が深くなり、黙りこくってしまう。そのような言語喪失状況と言えるものが私たちの身近に多くあると思います。そこで私たちが渇望しているのが、本当の言葉との出会い、人と人とを繋ぎ、心を通わせる言葉の発見であります。

 

 その点で大変に興味深いことを私たちに語りかけている一人に、竹内俊晴という人がいました。その人はある所でこう言っています。「相手のことばをとらえ、理解することは、だから常に一種の賭けである。ことばとは決して一定の意味を運ぶ安定した通貨ではなく、一つの結晶作用だ」。この指摘は大変に新鮮で、深く考えさせられるものです。私たちは言葉を発し、その言葉が一定の意味を運び、それが他者に伝えられることを、当たり前であり、当然のことと思っている。しかし、そうではない。言葉による意志の疎通は一つの結晶作用である。言葉を発するまでには時が必要であり、また十分な備えが必要である。また、それを聞き取るためにも十分な注意が必要である。そういった中で、もし言葉によって意志の疎通が可能であるとするならば、それは一つの賭けであり、それに基づく「結晶作用」と言わざるをえない。語るものの心と聞くもののこころが触れ合って新しい世界が開かれる。そういうことです。様々な言葉が洪水のように氾濫し、ITによってそれが世界大になっている今日、この竹内さんの指摘は重要です。「ことば、決して、一定の意味を運ぶ安定した通貨ではなく、一つの結晶作用である」。

 

 今週の主日礼拝は、ペンテコステ礼拝でした。 聖霊とは何でしょうか。それは神の力であり、今、私たちの内に生きて働く神ご自身のことです。その神ご自身の力によって、私たちは内側から突き動かされて生きる。これが聖霊の力において生きるということです。そして、その神からの力が与えられる時、私たちの心が暖められ、内に燃えるような(うなが)しを受ける。そのとき、本当の言葉、他者の心に届き、他者を生かし、また、自分をも生かし、励ます言葉が出てくるのでなないか思います。

 

 心、内に燃える経験を通して言葉が与えられる。これは2000年前の初代教会において起きた出来事です。そして、私たちは今夕、それに匹敵する出来事が280年前に、ジョン・ウェスレーという人物に起きたことを記念して集まっています。ウェスレーの場合にはルターの「神の恵のみ」「信仰のみ」という言葉が与えられました。「信仰とは神の恵みに対する生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である。神の恵みに対するそのような信頼と認識とは、神に対しても、すべての被造物に対しても、喜びと大胆さと好意をもつに至らせるが、これは、聖霊が信仰においてなすものにほかならない。したがって、強制なしに、自ら喜んで、だれにでもよいことをし、だれにでも仕え、あらゆることを忍び、このような恵みを示した神に愛と賛美をささげよう」(ルター訳聖書「ローマの信徒への手紙」序文)。このような言葉を通して聖書の言葉はウェスレーの心に届き、決定的な回心をもたらしたのです。

(了)

 

注;これは更新伝道会発行「更新伝道」151号に掲載されたものを文字起こししたものです。見易いように数字は英数字に変更してあります。