「断想だより」について

 

「断想だより」は藤木正三牧師の「断想」とは、大学生時代の4年間藤木牧師が牧会していた京都御幸町教会に住んで毎週日曜日の礼拝、水曜日の祈祷会と共にし牧師の謦咳に接した「ekyoukaiは良い教会」サイトの管理人の私が隔月でお届けする「お便り」の事です。「断想」とはどんなものなのでしょうか?ヨルダン社版「神の風景--灰色の断想--」(1985年刊)にある「あとがき」をご紹介したいと思います。それは、

 

「これらの断想は、日本キリスト教団京都御幸町教会週報に1970年4月以来連載して来たものである。1975年3月までの五年間の分は、『純粋と微笑-沈黙と愛のパンセ』として、1975年9月に、その改訂新版は『灰色の断想』と改題されて1981年4月に、それぞれヨルダン社より出版された。今回それ以後のもの、すなわち1975年4月より1985年3月までの十年間の分が編まれて本書となった。

 

若干の例外はあるが、断想はいずれも実際に教会で語った毎週の礼拝説教をできるだけキリスト教用語や表現を避けてまとめたものである。

 

 書く時に心がけたことが二つある。その一つは、誰にでもわかるものを書くこと。わかるというのは、内容が理解し易いという意味ではない。ふと立ち止まって人生を考える、そのようなきっかけを持っている、という意味である。信仰に何の関心も持たない人でも、誰でもが成程と思って、一寸立ち止まって人生を見直す、そういうものを書きたいと願った。その二は、私にしかわからないものを書くこと。それは、自分のことしか私は語れないという、基本的な自己認識に基づく。書くことにどれだけの普遍妥当性があるかは問題外のこととした。しかし、私に通用しないことは書かないようにした。

 

 誰にでもわかるように、私にしかわからないことを書いて、この断想は生まれた。

 

 一篇の長さは240字である。何故に240字であるのか。別に意味はない。書き初めた頃、教会週報に毎週なされていた会計報告が月毎になされるように変り、そのために生じたスペースが240字、そして`その制限の中で書くことを自分に課しただけの話である。制限が要求してくる推敲が思いをまとめるのに役立った。240字が適当な字数であるかどうか、今にして思えば問題にしてよいことであったかもしれないが、15年間一度も考えたことはなかった。

 

 約450篇の中220篇を選んだ。並べ方は大体発表順にした。テーマを掲げて分類しようかと思ったが、もともと毎週の生活の中から自然に生まれてきたものである。無理なこじつけになるので止めた。

 

 全体を等分して十篇にまとめ、各篇の最初の断想の題を、その篇の見出しとした。私の心の風景の大凡(おおよそ)を掴んでいただくのに、あるいは便利かと思ったからである。見出しの意味はそれだけであるので、一つ一つの断想は見出しと関係なしに、また、どれからでも自由に読んで頂ければ幸いである。

(中略)

 六十歳、他人事のように思っていた年齢が、私にも迫って来た。いのちの清けさへの渇望が切である。「人間としてうずくまる」(石原吉郎)修練にもっと工夫があるべきと思い、この3月、15年間書き続けた断想を止めた。書き始めたのは、日本キリスト教団の紛争がきっかけであった。あの時突きつけられた信仰への問いに、私なりに答え続けた結果が、この断想ということになる。」

 

この「あとがき」は 「断想」の概要が分かりますが、藤木牧師が何故「断想」を書き続けか?その理由が別の「灰色の断想(ヨルダン社、1975年刊)の「あとがき」に詳しく記されています。即ち

 

「 (前略)万国博問題をきっかけに、日本キリスト教団がその体質を烈しく問われ出したのは1969年であったか。その動きの中で、「違う、違う」と、問う方に対しても問われる方に対しても、(さだ)かなかたちをとらないままに、叫ぶものか私の心にはあった。それに表現を与えようとして、断想を書き出したように思う。本音を吐こうと心定めて、書き出したように思う。定かなかたちをとらないものを、できるだけ損なわないように、そっとそのままにとり出し、かたちを与えることにつとめた結果が、これらの断想である。しかし、だからといってこれらが、その事態に対する私の信仰の主張であるというわけではない。主体をかけた信仰告白、そんなおおげさなものでも、さらさらない。強いて言えば、まあ自画像とでもいったらよいようなものであろうか。

 

  「違う、違う」という叫びは、以前からあった。関西学院大学の神学部に入学して間もない頃、級友の一人に罪に苦しんでいることを話した時、「君の立場は律法主義的で、罪のゆるしの福音への信仰がない」と指摘され、そういうものかと思ったことがあった。また、卒業論文に対し、教授に「教会論がない」と指摘され、そういうものかと思ったこともあった。それらの指摘はいずれも正しく、キリスト教の正しい教理として、なにか権威ある客観的な規準のように迫って来た。だから、罪を深刻に考え過ぎるのは、自意識過剰で不信仰であると思い、また、教会をキリストの体と、とにかく信じようと努めて来た。しかし、そのように思い、そのように努めれば努めるほど、一般的に正しいと認められている教理に、自分を偽って合わせているような無理が、深く心の底に残ったのである。

 

 「違う、違う」という叫びは、何に向かって、どういうふうに叫ぶべきものなのか判らぬままに、問違いなくその頃からあった。たしかに、私のように、自閉症的罪悪感を脱却し得ないのは不信仰であろうし、教会という共同体が問題にならないような信仰は、聖書的信仰ではないと、私も思う。しかし、育った境遇に基づく性格の歪みによるのだろうか、自閉的な、あるいは自虐的な内面的反省を()いては、私の信仰は空疎なのである。こういう歪みを矯正するのが、信仰の力というものかもしれない。しかし。信仰生活二五年にして、なおいかんともしがたいのである。不信仰だと思う。

 

 やがて、こういう回復不能なまでに病的に歪んだ者を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになった。「私は私のままでよい」と私自身を受けとる、それが神を信じるということなのだと思った時、心の中にあった無理が無くなった。客観的正しさなどおそれる必要はなくなった。というよりは、神の前には客観的正しさなるものは、実は初めから存在しなかったのである。全き肯定をされる神のみが、普遍で唯一の客観的実在であり、人間の世界の内にあるものは、正統的信仰といえども、相対的で主観的なものに過ぎない。信仰は、そのような神を信じるものである故に、人は自分の信仰に、普遍性とか客観性とか正しさとかを求める必要はない。ただその主観性と相対性をわきまえておればよいのである。その限度を自覚している限り、どういう信仰を持とうと自由である。神を信じるということは、人間の世界に「これでなくてはならぬ」というものがなく、「あれでもない、これでもない」のであり、その「あれでもない、これでもない」ものが、「あれでもよい、これでもよい」と受け入れられている、そういう世界、こだわりのない、とらわれのない広い世界を生きるということなのだ。そう思えるようになった時、久しく心の中で叫んでいた「違う、違う」が、押しつぶされるべきものではなくて、そっと取り出して、かたちを与えることが許されているものと、考えられるようになった。簡単にいえば、無理をしないで本音を吐いてよろしい、ということである。考えてみれば、何と久しい間、普遍的で客観的な宗教的正しさという幻影におびやかされていたことか。

 

 そして、こういう気持に導かれた時が、たまたま1969年、あの混乱した事態のはじまりの年の頃であった。あの事態が、私の「違う、違う」に、かたちをとるよう促したことは事実であるが、私の「違う、違う」は、なにもあの時にはじめて出て来た叫びではないのである。それは、イエス・キリストを信じた若い日に遡ることができる叫びであった。求め、教えられ、信じている信仰に、私自身を任せ切れないのである。信仰を否定しているのではない。むしろ、真面目にそれを肯定している。しかも、自らをそれに委せ切れず、はみ出すのである。最初は、このはみ出しを逃避と思った。わがままであり、そして、誤りであると思った。しかし、やがてこのはみ出しこそ、まさにすぐれて私の問題であり、内面的に限りなく反省してゆく、そして神と出会う場所として、認容されるべき正当な権利を持つものと考えられるようになった。今や私に求められることは、はみ出さないことではなくて、はみ出しに応じて包みたもうている神の愛を、この私一人のための愛を、しっかり生きることである。「違う、違う」は、この私一人のための神の愛が、誰彼なしに与えられる愛一般に、平板化、観念化、抽象化されることへの、抵抗の叫びであった。だから、それは、他者への批判でもなければ、自分の主張でもない。それは、私一人への神の愛を、誰にも手を触れさせず、そっと大切に感謝していたい願いなのである。したがって、その叫びに促されて書いたこれらの断想が、批判や主張であるはずはないのである。それは、信仰告白といってもよいか、それほど大したものでもない。私一人へ注ぎたもう神の愛の下に、私が見て、私が画いた、私の自画像である。それだけのことである。

 

 誰にでもわかるように、私にしかわからないことを

 若干の例外はあるが、断想はいずれも、実際に教会で語った毎週の礼拝説教を、できるだけキリスト教用語や表現を避けてまとめ、そして教会週報に載せたものである。

 

 書く時に心がけたことが二つある。その一つは、誰にでもわかるものを書くこと。わかるというのは、内容が理解し易いという意味ではない。ふと立ち止まって人生を考える、そのようなきっかけを持っている、という意味である。信仰に何の関心も持たない人でも、誰もが成程と思って、一寸立ち止まって人生を見直す、そういうものを書きたいと願った。その二は、私にしかわからないものを書くこと。これは、ものを書く人が誰しも味わう、多くの読者にわかってもらおうとする、あの誘惑との戦いではない。それは、私に通じることしか私にはいえないという、基本的な自己認識から逸脱するまいということである。信仰生活約25年、牧師になって20年、ますますはっきりして来たことは、一人の信仰者としても、一人の牧師としても、一人の人間としても、一般的・普遍的なものから、全くはみ出ているということ、迷い出た一匹の羊そのままの自分の発見であった。それはまた、はみ出たものをそのままに包む、イエス・キリストの父なる神の愛の発見でもあった。つまり、「駄目でもよい理由を持った駄目な人間」、これが、私の自己認識の基本なのだ。私にとって、神の愛は、「お前ははみ出ていてもいいのだよ」である。しかし、それは同時に「お前は、自分に通用することしか考えることのできない男なのだよ。一般に語りかけるなど、身の程知らずの傲慢なのだよ」ということでもある。だから、書くことにどれだけの普遍妥当性があるかは問題外のこととして、私にだけ通用し、私にだけわかることを書けばよいのであり、それ以外のことは書いてはならないのである。誰にでもわかるように、私にしかわからないことを書いてこの断想は生まれた (後略)」

 

この様にして生まれた「断想」は誰にでも解るように書いてはあるものの、その内容は決して易しくはありません。それに、作者である藤木牧師にしかわからないことが書いてあります。しかも一篇が僅か240字しかないので表現が濃縮されています。それで多くの読者が、何となく解ったような感じになったまま読んでしまいがちです。「断想」の内容を理解するには何度も読み返して一語一語その意味を吟味する手助けが必要です。「断想だより」はその様な手助けを読者に与えられればと願っています。

 

「断想」のもう一つの特徴は美しい日本語で書いてある、ということです。キリスト教は欧米からの輸入宗教なので翻訳語調の言葉で語られてきました。日本人が心の内で自分に語り掛ける言葉で語り掛けなければ、その教えは決して心には届きません。腑に落ちる説教はできません。それに、日本人には縄文時代以来の数千年続いた独自の形而上学の伝統がありそれが日本語として残っているのです。キリストの教えを翻訳調の言葉遣いで語っても、そうした言葉は聴衆の心の上を流れて消えて行きます。「これが真理だ」と押し付けても若い人には受け入れられません。しかし、魂の救済を求める若者は決して少なくはありません。

 

「断想だより」の見本をご覧に入れます。第32号「人生を祝福する」という断想だよりがあります。この「いやなことをされると、腹を立て仕返しをしてやろうと思います。立場が逆になると、相手も同じことを考えるでしょう。」で始まる断想はココをクリックしてみてください。この断想だよりはYouTubeにあげてあるのでココをクリックしてみてください。これまでに発行した「断想だより」の一覧はココをクリックしてみてください。

 

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