新「断想だより」購読のご案内

 

半世紀前、京都市中京区・御幸町教会の藤木正三牧師は週報に250字ほどの空白がたまたまできたので、そこを小文で埋めることを思い付きました。それはご自身が毎週話している礼拝説教のエッセンスを、できるだけ宗教用語を使わないで、説教を聞かなかった人にもそれなりに伝わるように簡潔に語ることでした。この小文が回を重ねるうちに教会員が高く評価する様になり、教会員から一冊の本に纏めたいという声が起こるようになりました。藤木牧師は、自分の勝手な独白に過ぎないのに分に過ぎたこととして当初はそれを固辞しておられましたが、有力な教会員たちの重ねての願いに折れ、「灰色の断想」と題して文集を出版することに同意されました。出版といっても一頁に一断想を印刷しただけの、大きめの短冊を重ねたような厚さ5ミリにも満たない薄いものでした。

 

しかしながらその内容は、牧師の深い思索を限られた文字数内で表現するために彫琢に彫琢を重ねた言葉が並び、まるで珠を連ねた数珠のような輝きを発し、読む者に思索を誘発しあるいは傷付いた心に慰めを与えるものでした。

 

藤木牧師は初版の「灰色の断想」のはじめにこう書いておられます。「誠実、無欲、色でいえば真白な人、不実、貪欲、色でいえば真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。比較的白っぽい灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、とにかく人間は、灰色において一色であります。その色分は一人の人間においても一定ではなく、白と黒との間をゆれ動いているのであり、白といい、黒といっても、ゆれ動いている者同志の分別に過ぎません。よくみればやはりお互いに灰色であります。灰色は、明るくはありませんが暖かい色です。人生の色というべきでありましょう。」

 

最初の「灰色の断想」が好評だったのでその続編が出版され、読者が増えるにつれ藤木牧師の説教を聞きたい人々が御幸町教会の礼拝堂にあふれるようになり、出版社がそうした動きを捉えて何冊もの説教集が出版されるに至りました。

 

ekyoukaiは良い教会」の管理人である本多 謙(ほんだ けん)は藤木牧師が牧会しておられた京都御幸町教会内の寮に大学生時代の4年間(1970〜74年)住み、毎日曜の礼拝と水曜の祈祷会に出席し藤木牧師の薫陶を受けたのでした。その後教会生活を続け、10年程前から「ekyoukaiは良い教会(http://ekyoukai.org )」サイトを立ち上げ今では入手難になった藤木牧師の著書や資料などを再掲してまいりました。一昨年からクリスチャンの精神科医として著名な工藤信夫先生から「断想だより」の原稿を頂きそれを希望者に郵送して参りましたが、今回これを新「断想だより」として「ekyoukaiは良い教会」の「こころのチャンネル」として郵便や電子メールで再びお届けすることにしました。原稿は本多謙ほか藤木牧師に詳しい者の予定です。

 

「断想」の文章は豊かな内容が余りにも凝縮されているために、読者の思惟を誘発し想いを開放する手助けや、異なる視点での読み方の提示がなければ表面的な理解だけに終わり、表現の深い意味に新たに気付かないで終ってしまうかも知れません。「断想だより」その様な導きを読者に与えられればと願っています。

 

新「断想だより」は2020年初夏に第一報をお送りし、続報を隔月お送りする予定です。以下の第一報のサンプルをご覧ください。お気に入って頂いたら購読の手続きをして頂きますようご案内申し上げます。

 

この「断想だより」を通して貴方さまの精神生活がより豊かになることを願っております。

 

2020年5月12日

主催;「ekyoukai.orgは良い教会」

協力;KenConsulting()

 

「断想だより」の購読は年会費三千円(メールだけをご希望の方は二千円)を下記の銀行口座にお振込み頂き、郵送先の住所、氏名をメールなどでお教えください。お振込み頂いた方には第一報から改めてお送りします。お振込みの期限はありませんが、お早いお振込みをお待ちしております。

 

 

振込先; 三井住友銀行 光が丘支店 (普)0775660

名義;ケンコンサルティング

郵送先の住所氏名のご連絡は:support@ekyoukai.org までメールまたはhttp://www.ekyoukai.org にアクセスして頂き、 をクリックしてお知らせください。

 

注;

l  メールでの配信をご希望の方は、住所はお教え頂かなくて結構です。

l  「断想だより」会費納入等に関する事務は「ekyoukaiは良い教会」の主催者である本多謙の会社であるKenConsulting(有)が請け負います。本多謙と藤木牧師との関係はhttp://ekyoukai.org/FujikiShozo/FujikiShozo.htm をご覧ください。

 

 

 

「断想だより」老いと死を考える

藤木正三師の「灰色の断想」から

 

老いて行くことは容易なことではありません。私どもは成長期には新しい様々な体験を自分の心や体の内に取り込み消化するのに辛い思いをすることもありますが、老年期にはその逆に直面することになります。能力は日々衰え、過ぎた時は取り戻せず、生まれ変わらなければ取り戻せないことや物にも折り合いを付けなければならないこともあります。若い時の思いは儚く過ぎ去り、今はもう思い出すばかりです。この様な人生の姿について、藤木先生は次の様に述べています。

 

「無きが如くに

 すべては、はかなく頼りなく過ぎてゆきます。どこを見ても、何を見ても永遠に続くような絶対的なものに出会えません。一体、それはどこにあるのでしょう。死後の世界に求めるべきなのでしょうか。現実の生活に全く無縁なところにあるのでしょうか。そもそもそのようなものは無いのでしょうか。そうではありません。現実の生活の裏側に、それはぴったりくっついているのです。現実に執する目には見えないだけのことです。ですから、日々を無きが如く執せずに生きるなら、人はどこにおいても永遠を味わうでありましょう。」

 

藤木先生は「どこを見ても、何を見ても永遠に続くような絶対的なものに出会えません。」と神様を否定するような事を言いますが、最後に「人はどこにおいても永遠を味わうでありましょう。」と神様を肯定しています。それでは「絶対的なもの」はどこにあるかというと、「現実の生活の裏側にぴったりくっついている」と言われます。それは「日々を無きが如くに」、物事に執着しないで生きるなら」という条件があって、そうであれば私どもは日々の生活のどんな場面でも「永遠を味わう」だろう、と言われます。「永遠」を「味わう」というのはどういうことでしょうか。ほとんどの人にとって人生は苦いものです。たとえ事業や子育てに失敗して老年に至り、再起を望むべくもない老残の身になったとしても、甘露を味わうように永遠を味わうことができるのでしょうか。それは自分の日々の現実の生活を深く吟味することから始まるでしょう。成功とも言えなかった自分の人生にどう向き合うかについて藤木先生は次の様に述べています。

 

(以下 略)