目 次

まえがき

神は生きている者の神である

「ラボニ」

神の主権 

見ないのに信じる幸い

悔い改め 

イエスを知らなかった

愛は忍耐 

書いてあるとおりに

心から赦す

イエスがこれと思われた者

心をこめて今を

正気

完全なもの

この光にふれたら

からし種一粒ほどの信仰

捨てる   

星の導き

      夢

主の弟子

聞く

真剣に生きる

人を裁くな 

信仰と愛

お助けください

 

 

まえがき

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」 イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

(ヨハネによる福音書 21・17-18)

 

 考えてみれば、私にとってイエスが救主であるとは、ゆがみに満ちた私の人格をそのままに受け止め、共感をもって忍耐強く接して下さるカウンセラーとして、であった。そして、そのカウンセリングに応じ、従い、素直に生きることの修練が、私の信仰生活であった。内容的に言えば、それは「行きたくないところへ連れて行かれる」の御言葉を基本に、置かれた所を引き受け、負わされた事から逃げないことの修練、すなわち『被の修練』であった。

 「行きたくないところへ」、これを敢えてできるのは人間だけである。他の道を選ぶ ことを正当化できる十分な理由があっても、敢えてこれをするのは人間だけである。そこには、被造物としての人間の面目がある、本来的姿がある。

 それはそうとして、『被の修練』としての私の信仰生活は、決して喜びとか平安とかに満ちたものではなく、むしろ苦しみの連続であった。しかし、根底にイエスによる完全な受容を頂いてのことであり、それはそのイエスとの人格関係の中で、自我の狭い殼に閉じこもっているものが次第に解放されていく、「人問治療」 の旅であったように思う。

 私は御言葉によって、いつも自分の正当化にはたと思い当たり、そのゆがみを深く凝視させられてきた。イエスがカウンセラーとして寄り添って、援助し続けて下さったお陰でなされた自己洞察の旅、それが私の信仰生活であった。

 いずれにせよ、私の話したり書いたりしてきたことは、その為にいつも、教義的正しさや教会形成の課題には関心のない、私個人の「人間治療」という実存的関心で自由に聖書を読んだ結果であり、いわゆる説教でもなければ、聖書研究でもなかった。常にそうであったように思う。そして、この『この光にふれたら』(「みことばにきく」として「信徒の友」1993-94年度連載)も、その点同じである。私は「病者の自覚」を深められ、そして、自分に納得できる限りにおいてしか聖書を読んでいない、語っていない。だからこれは、イエスキリストより私か受けているカウンセリングの覚え書きのようなもの、と考えていただければ幸いである。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書9・12-13)。

 主の「人間治療」を不可欠とする「生涯一病人」、これ以外に私の人生は無いと思っている。

 この度、「信徒の友」に連載されたものがまとめられて本書となった。思いがけないことであり、日本基督教団出版局に感謝したい。特に伊東正道氏にはお世話になった。

 イラストレーションを画いてくださった田中棋子氏に厚く御礼申し上げる。私自身、毎号楽しみにして待ち、そして、毎回感動した。

    1996年4月